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2008/03/30(日) 「神の栄光のために」島田巌牧師(神楽町教会)
年度末礼拝(交換講壇) ヨハネ21:1〜19

今日は交換講壇で大嶋先生が神楽町教会に来ていただき、私が神戸ひよどり台教会を訪れてご奉仕をさせていただいてます。たまたまですが、大嶋先生も私も「ペテロの死」に関係する箇所のメッセージをさせていただいています。

 さて、今日の聖書の19節がペテロの死に方について語られた箇所です。伝道のためには夢と讃美があれば良いと言う事は大嶋先生ご夫妻が神戸ひよどり台で開拓伝道をされて教会を建て上げられた生き様が証明しています。
 でも人生は一本道ではありません。私の知っている方にも一時は「逆の方向の生活」をされて今は素晴らしい教会生活を送っておられる方があります。

 同じように、「復活の主」に出会ったペトロやヤコブやヨハネなどの主イエスの弟子たちもすぐに伝道生活に入らずにむしろ逆の方向を向いた生活をしていました。ペテロは元の漁師の生活に戻ったような生活をしていたのです〜他の弟子たちと共に出掛けた漁も収穫はゼロでした〜がそんなペテロが生活を一瞬にして変える出来事が今日の聖書の箇所です。

 漁に出掛けて収穫の無かったペテロに復活のイエスは「伝道をしないペテロをお叱りにならず」にもう一度漁に出て舟の右側に網を下ろすように言われます。そして、ペテロがその通りにすると沢山の魚が(153匹もの魚が)とれたとあります。失意の中にいるペテロをお叱りにならずに、共にいてくださる、一緒に漁をしてくださるのがイエスの愛でした。右側に網を下ろせと言う「発想の転換」を教えてくださり、そして主のために命を失うものは永遠の命を得る、と教えてくださり、「わたしの羊を飼いなさい」と言われます。そのみ言を聞いたペテロは主に心から従う使徒になったのです。

 三度も「わたしを愛しているか」と尋ねられたイエスの愛に、その愛に応えてペテロはイエスに従う生活を始めたのです。私たちも、神様のご栄光のために総ての生活を献げる事が出来るように発想の転換をなし、共にいてくださるイエスと共に歩む者になりたいと思います。
感謝します。

2008/03/23(日) 「主はほんとうに甦られた」大嶋博道牧師
イースター記念礼拝 (聖書)コリント一15:12〜19

はじめに:
イースターは私たちの「弱さを清算する日」すなわち新しい命の出発の日です。
キリスト教は復活・再生の宗教です。滅びが救いに、悲しみが喜びに、不安が平安に、そして失望が希望に変えられるという「魂の再生」が中心的な教えです。
序 論:
 イエス・キリストが復活された出来事を聖書は次のように語っています。
                            (マルコによる福音書参照)
@日曜日の早朝、マリヤたちがイエスの遺体に香油を塗るために墓 に行きました。
A墓の扉がわりの大きな石は取り除かれていました。
B墓の中にはイエスの遺体はありませんでした。
C天使が現れて「イエスは復活なさって、ここにはおられない」と告げました。
D女性たちは墓から帰って、この事の一部始終を弟たちに伝えました。(ルカ24:9参照)
Eこれを聞いた弟子たちはこの事を「戯言」と思いました
F弟子のペトロが確認のために墓に行きましたが、墓にはイエスの体は無くて空虚でした。(ルカ24:12参照)

●イエスの復活を証明する出来事が幾つかあります。
一つ目は「墓が空虚だった事」(イエスを葬った墓にイエスはおられなかった)、二つめは「多くの弟子たちがイエスに出会ったと証言している事」三つ目は「弱くて臆病だった弟子たちが、後に大胆にイエスは復活されたと証しをし始めた事」などです。

本 論:
 私たちは甦りのイエスに出会う事により大きな力を得ます。では、復活が私たちにもたらすものは何なのかを考えて見ましょう。
@「復活を信じる事」から本当の信仰が生まれます(1コリント5:14〜A「復活を信じる事」から本当の平安が生まれます(ヨハネ20:19〜21)
B「復活を信じる事」により本当の希望が生まれます。心が燃えて明日に向かって歩き始めるのが希望なのです。(ルカ24:32)
B「復活を信じる事」にから本当の使命に生きる新しい人生が生まれます(ルカ24:33,使徒4:12)
まとめ:
 イースターは弱さを克服して希望を持って生きると言う恵みをいただく日であり「死に留まる事ではなく生きよ」との主のみ言葉を絶えず聞きつつ新しい視点に立って自立する事を確認する日でもあるのです

2008/03/16(日) 「無理に背負わされた十字架」大嶋博道牧師
受難週パームサンデー礼拝 (聖書)マタイ27:32〜44

はじめに:
本日より「受難週」が始まります。主の十字架を心に刻みながら大切な時を過ごしましょう。

序論:
今日の聖書の箇所はイエスが十字架に架かられる直前(数時間前)に起こった出来事です。
イエスは自分の十字架を担いでゴルゴタの刑場へ向かっていました。ローマの兵士はその道の途中で、過越しの祭りのためにアフリカのキレネの田舎からやってきたシモンに無理にイエスの十字架を担がせました。
その理由として考えられるのは、
@イエスがとても衰弱され、一人では背負えなかった事。
Aだれもイエスの十字架を共に担ぐ者がいなかった事。(本来そばにおるべきイエスの弟子達さえそこにいなかったことが暗示される。)
当時の十字架は縦4.5b、横2bほどの重くて大きなものです。

本 論:
 今朝、共に学びたいことは「十字架を背負う」ということです。
いったいマタイ27:32(マルコ15:21〜32,ルカ23:26〜43参照)のこの短い聖句が何故ここに記されているのでしょうか。福音書の著者達はこの出来事を書くことによって、読者に何を伝えたかったのでしょうか?受難週にあたりこのことを考えてみたいと思います。

 クリスチャンは「…自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)とのイエスの命令のように「自分の十字架を背負う」存在です。私たちが生きていると言う事、生きると言うその事自体が十字架ではないでしょうか。私たちは様々な不都合や困難、時には試練を経験します。それらから逃げないで、ありのままの自分を、自分の人生を背負って行くと言う事が必要ではないでしょうか。その事が「自分の十字架を背負って」と言う事の意味なのです。

 イエスの十字架を無理に背負わされたシモンは最後まで十字架の側にいてたことと推測されます。そして百人隊長が「この人は神の子だった」(マタイ27:54)という言葉を聞き、彼自身もそのことを確信して帰路についたことでしょう。以来、シモンはイエスの十字架と共に自分の人生と言う十字架を背負って歩いたのです。
 シモンの子どもたち(アレキサンドロとルフォス)は後に教会の中心的な働きをするようになります。
また、シモン自身も同様に祝福された信仰生活を送ったことでしょう。

 私たちもイエスが背負われた十字架を背負って生きていきたいと思います。それは「自分の人生の中で与えられた十字架」を背負って、主に従うことに他なりません。
「Foot Prints」の詩にあるように、私たちが一番苦しい時には主は私たちを背負って下さることを信じて、無理に背負わされた十字架をも喜んで担って生涯を歩みたいと願います。

2008/03/09(日) 「ああ主の熱きひとみ」大嶋博道牧師
聖日礼拝(聖書)ルカ22:54〜62

序 論:
 今日のメッセージの中心は、イエス様を3度も知らないと否認したペトロに向けられたイエス様の「ひとみ」に込められたメッセージは何だったのか?であります。まず、裁判までの経緯を見ておきましょう。

(1)最後の晩餐の時にイエス様は弟子達の裏切りを予告。(ルカ22:31〜)
(2)ペトロは「主よ、あなたとご一緒なら、牢に入っても死んでも良いと覚悟しています。」 と、自分の信仰の決意を語った。(ルカ22:33)
(3)イエス様は「あなたは鶏がなくまでに3度私を知らないと言う」予告された。
 やがて、イエス様はゲッセマネで捕らえられ、大祭司カヤパの官邸で略式の裁判を受けます。ペトロはヨハネの介添えで官邸の中庭に恐る恐る入り込み、裁判の成り行きを見守ります。
 その時、そこにいた人々から「お前もイエスの仲間だ」と問いつめられて3度も「イエスを知らない」と否認したのです。その時、朝を告げる鶏が鳴きます。
 ルカだけが「主は振り向いてペトロを見つめられた」(ルカ22:61) (The Lord Jesus turned and looked straight at Peter.)と、記しています。

本 論:
このイエスの「ひとみ」に込められたメッセージを考えてみたい。それは決してペトロを侮辱し、責め立て、裁くものではなく、
(1)最後まで従いきることができないペトロの弱さと不信仰を深く憐れむと共に、
(2)そのペトロを赦し、励まし、支えるまなざしではないでしょうか。

 この主の赦しのまなざしが、後でペトロを立ち直らせます。そしてもう一度主の弟子として立たせていくのです。彼はペンテコステ(聖霊降臨日)の直後から、初代教会の使徒や信徒たちのリーダーとして立ち上がります。

 やがて、主の赦しの十字架を悟ったペトロは、「キリストは十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたは癒されました」(1ペトロ2章24節)と、書き記すに至ったのです。

まとめ:
わたしたちも主につき従う信仰の歩みの中で時に失敗し、過ちを犯し、挫折する時があります。しかし主イエスはそのような私たちを憐れみ、励ましていかなる状況の中においても信仰者として立たせて下さるのです。この「主の熱きひとみ」に見守られながら、ひたすら謙虚に主に従って行きましょまう。  

2008/03/02(日) 「人生のゲッセマネで」大嶋博道牧師
総員礼拝・聖餐式 ルカ22:39〜46

序 論:
 人生には様々な場面があります。幸せな時・不幸な時、嬉しい時・悲しい時、順境の時・逆境の時…そのような中で、私たちはどう決断し、どう生きたら良いのかと、しばしば「葛藤」することがあります。
 
 今日の聖書の箇所は主イエスの「葛藤」が書かれています。
主イエスは十字架を目前にした木曜日の夜、最後の晩餐を終えて弟子たちを伴い、普段から祈りの場として使っていたオリーブ山のゲッセマネの園(庭)に行きます。
ゲッセマネとは「油しぼり機」と言う意味があります。その象徴的なゲッセマネでイエスは3人の弟子たちと最後の祈りの時を持たれました。

本 論:
 この物語から、私たちが出会う「人生のゲッセマネ」とはどのようなものなのか、どう対処したら良いのかを学びたいと思います。

@人生のゲッセマネとは、人間の本質が弱さと罪深さであると言う事を確認するところです。私たちはしばしば失敗し、迷い、悩み、病を患い、欠けを感じます。主イエスはゲッセマネで「人間イエス」として最後の苦しみを味わわれました。「わたしは死ぬばかりに悲しい」と訴えておられます。(マルコ14:34)そのような人間の弱さを確認するのが人生のゲッセマネであると言えます。

A人生のゲッセマネとは、神のみ心を求めて祈りによって神と向かい合うところです。
主イエスは42節で「父よ、み心なら…」と祈られています。キリスト者は自分の計画や思いで行動するのではなく、まず、祈って、み言葉に聴きながら「父よ、み心なら…」と神様のみ心を求めて確信を与えられてから行動します。み心を知るために神と向き合い、時には神と組み討ちする必要があります。それが人生のゲッセマネです。

B人生のゲッセマネとは、信頼と平安を与えられるところです。私たちには「人生の」ゲッセマネ(葛藤)があります。しかし、神様と向かい合う時に平安が与えられるのです。
苦しみの後で、神に信頼して「立ち上がる事」が出来るのです。主イエスは十字架に向かって「立て、行こう」と、勝利が与えられました。

まとめ:
 このような大きなエネルギーが与えられるところが「人生のゲッセマネ」なのです。(ローマ8:37)
私たちも「人生のゲッセマネ」に直面したときは、真剣に祈りとみ言葉とメッセージによって神と向き合ってみ心を求め、導きをいただき、平安を与えられましょう。(祈祝福)


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