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2008/03/16(日) 「無理に背負わされた十字架」大嶋博道牧師
受難週パームサンデー礼拝 (聖書)マタイ27:32〜44

はじめに:
本日より「受難週」が始まります。主の十字架を心に刻みながら大切な時を過ごしましょう。

序論:
今日の聖書の箇所はイエスが十字架に架かられる直前(数時間前)に起こった出来事です。
イエスは自分の十字架を担いでゴルゴタの刑場へ向かっていました。ローマの兵士はその道の途中で、過越しの祭りのためにアフリカのキレネの田舎からやってきたシモンに無理にイエスの十字架を担がせました。
その理由として考えられるのは、
@イエスがとても衰弱され、一人では背負えなかった事。
Aだれもイエスの十字架を共に担ぐ者がいなかった事。(本来そばにおるべきイエスの弟子達さえそこにいなかったことが暗示される。)
当時の十字架は縦4.5b、横2bほどの重くて大きなものです。

本 論:
 今朝、共に学びたいことは「十字架を背負う」ということです。
いったいマタイ27:32(マルコ15:21〜32,ルカ23:26〜43参照)のこの短い聖句が何故ここに記されているのでしょうか。福音書の著者達はこの出来事を書くことによって、読者に何を伝えたかったのでしょうか?受難週にあたりこのことを考えてみたいと思います。

 クリスチャンは「…自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)とのイエスの命令のように「自分の十字架を背負う」存在です。私たちが生きていると言う事、生きると言うその事自体が十字架ではないでしょうか。私たちは様々な不都合や困難、時には試練を経験します。それらから逃げないで、ありのままの自分を、自分の人生を背負って行くと言う事が必要ではないでしょうか。その事が「自分の十字架を背負って」と言う事の意味なのです。

 イエスの十字架を無理に背負わされたシモンは最後まで十字架の側にいてたことと推測されます。そして百人隊長が「この人は神の子だった」(マタイ27:54)という言葉を聞き、彼自身もそのことを確信して帰路についたことでしょう。以来、シモンはイエスの十字架と共に自分の人生と言う十字架を背負って歩いたのです。
 シモンの子どもたち(アレキサンドロとルフォス)は後に教会の中心的な働きをするようになります。
また、シモン自身も同様に祝福された信仰生活を送ったことでしょう。

 私たちもイエスが背負われた十字架を背負って生きていきたいと思います。それは「自分の人生の中で与えられた十字架」を背負って、主に従うことに他なりません。
「Foot Prints」の詩にあるように、私たちが一番苦しい時には主は私たちを背負って下さることを信じて、無理に背負わされた十字架をも喜んで担って生涯を歩みたいと願います。


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