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最新の絵日記ダイジェスト
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2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2008/04/27(日) 「この時のためにこそ」大嶋博道牧師
フレンズサンデー礼拝 (聖書)エステル記4:1〜19

エステル記概略
 ペルシャの要塞の町スサにモルデカイというユダヤ人がおり、彼はエステルという顔立ちの美しい女性を養女にして暮らしていた。エステルはクセルクセス王の目に留まり、やがて王妃に選ばれた。
 時が流れ、王の側近のハマンは自分に敬礼しないモルデカイに腹を立て、ユダヤ人の根絶を謀った。そのことを伝え聞いたモルデカイは王妃エステルに告げ、助けを求めた。
エステルが躊躇している時、モルデカイは「自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時のためにこそ、エステルは王妃の位にまで達したのだ」とエステルに決意を求めた。エステルは「このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります」と、答えた。

●私たちに起こった出来事で「何故?」と、その事が起こった理由が分からない事があります。過去の出来事、そして現在起こっている出来事についてです。しかし、神様は、今日の愛唱聖句の証しで高橋姉がエレミヤ29章11節を通して語られたように、私たちに災いではなく、将来と希望を与える計画を立てて下さっておられます。後になって振り返って見た時に神様の大きなご計画を知る事が出来るのです。
 
この物語から二つのことをまなびましょう。
@神様のご計画は必ず実現すると言う事が学ばなければならない第1の事です。箴言に「人はサイコロを投げる。しかし数字を決めてくださるのは神である」とのみ言葉があります。
今は分からなくても、後で神様のご計画を知る事が出来るのです。私たちの人生もその「主体」は「私」ではなくて神ご自身が主体であり、私たちの人生は神様のみ手の中にあるのです。

A神は万事益となるように働いてくださる、と言う事がその第2の事です。「私の益」とは、私の利益となると言う事ではなくて、神様の目から見て私にとって最善であると言う事です。
キリスト教は「摂理信仰」に立っています。摂理信仰とは、人間の罪と悪にもかかわらず、また人間の弱さや欠けにもかかわらず、それよりももっと強力に神の導きと神の支配があるという信仰です。つまり、神は私たちの人生を神のみ手の中で最善に導いて下さるのです。それを信じるのが「摂理信仰」です。

●エステルは最終的には王の庭に行き、訴えます。そして王はそれを聞き入れて悪企くみをしたハマンは十字架に架けられて葬り去られます。エステルの命をかけた訴えは神様の祝福を受けたのです。私たちも神が備えて下さった「この時のため」をしっかり受け止めて、最善を尽くしたいと思います。

2008/04/20(日) 「世に打ち勝つ信仰」 西脇衛士勧士
信徒礼拝(聖書)ダニエル書1章 

緒論
「世」とはギリシャ語でコスモス・・神が造られた秩序と調和がとれている美しい世界(宇宙)を意味します。最初の人間に委ねられたこの「世)の支配権をサタンに譲り渡してしまった。そのサタンの働きは、人間に神を疑わせ、神から引き離すことである。その結果、この世は秩序(神・愛)ある世界から無秩(神・愛のない)の世界に変わってしまった。その結果人間は自己中心となり、見えない世界から見えるものの世界に心を奪われ、自己中心となった。(第2テモテ3:1−5)(第1ヨハネ2:16)

今朝、ダニエル書を通して、この世の権化とも思われるバビロンに、捕囚されたダニエルとその仲間たちとの信仰から学びたい。

本論
捕囚となったダニエルたちの受けた試練と誘惑とは・・
@文化と習慣 A偶像 B妬み(人間関係)との誘惑と戦いである。
国にはそれぞれの大切にしたい固有の文化があり習慣がある。しかし、その成り立ちが宗教から出ていることが多い。そして、日本の文化習慣だからと言って安易に取り入れる危険性は無いだろうか。そこに又、偶像との関わりが出てくるのです。
そこから生まれる人間関係の難しさもある。そこに神の愛と知恵が必要となってくる。
ダニエルたちは70年に及ぶ捕囚生活の中で異教の文化習慣・偶像に染まらなかった秘訣は何だったのでしょう。(第1ヨハネ5:1−5)

@真の神を神とする信仰・・人と偶像を拝まなかった。それは、死に直面したときも「神は私を助けて下さる。もし、そうでなくても・・」という神に対する絶対的信頼であり、神の最善を信じる信仰である。

A神を愛しその戒めを喜んで守る信仰 何が神に喜ばれることかを知る

B祈りの生活を続ける信仰 ダニエルも日に3度窓を開けて祈った。

しかし、今もこの世の支配者であるサタンはライオンのように食いつぶすべきわたし達を求めて、日夜活動しているのです。しかし、イエス様がこの世に来られたのは悪魔の業を滅ぼすためである。(第1ヨハネ3:8)     

結論
サタンに勝利されたイエス様を、神の子として信じる信仰に固く立ち続ける事が、世に打ち勝つ信仰の秘訣である。

2008/04/13(日) 「見失った羊」畑中康雄勧士
信徒礼拝 (聖書)ルカ15:1〜7

●このたとえ話で羊飼いは、羊が一匹いなくなると残り全部を放っておいてでもその一匹を見つけるまで捜し回り、やっと見つけると嬉しさのあまり近所の人まで呼び集めて一緒に喜んでくれと言ったとあります。
そして、この様な大きな喜びは神様に背いていた人が神のもとに戻って来た時の喜びに似ていると言われるのです。

●百匹の羊は神様の内にある人々であり、そこからいなくなった一匹の羊は神様との関係を絶って自分自身の思いにまかせて刹那的に生きるようになった人、つまり罪人の事を指しています。
そして15章4節に「見つけ出すまで」とありますが、これはその一匹をどうしても見つけ出すと言う「1人1人の魂への個別的な、特別な神の愛」を表し、5節にある「その羊を担いで」とあるのはいなくなった一匹の羊は恐らく長くさまよい歩いて疲れ果てて、もはや歩いては元の場所には帰れなかったであろう羊に対する愛の業を表しています。
疲れのために弱り果ててもはや一歩も動けなくなった放浪の罪人を神様は肩に担いで膝元まで連れ戻してくださると言う事がここでは語られています。

●私たち罪に陥った人間も再び神様の前に出る事が出来るようになるまで、もはや1人で歩いては神の御前に帰る事が出来ないほどに精神的にも肉体的にも疲れ果てているのにちがいないのですが、そんな私たち罪人を神様は「肩に担いで」元の平安な場所に連れ戻してくださる、と言う愛の現れが「肩に担いで」と言う言葉の意味なのではないでしょうか。

●聖書の教えは、99匹の安全のためなら1匹ぐらいどうなっても良いと言う切り捨ての論理ではないのです。このように神様は私たち1人1人を、個別的に愛してくださり探し求めてくださるのです。
この世の出来事を解決しようとする時に「この事さえ無ければ、あの人さえいなければ、と言う切り捨ての理論」では何も解決しないのです。
その切り捨てられる一人が居なくなればまた別な切り捨てられる一人が出てきて最後には自分も切り捨てなければ問題は解決しなくなるのです。
1人1人を大切にすると言う考えが無ければ問題は解決しないのです。その一つ、その1人が大切にされなければならないのです。

2008/04/08(火) 「良き牧草地で養う」大嶋博道牧師
〜牧師と信徒の関係〜
新年度開始総員礼拝(教会創立17周年) (聖書)エゼキエル34:1〜19

はじめに:
 2008年度を始めるにあたり、今年もまた、エゼキエル書をとおして「羊飼いと羊との関係」すなわち「牧師と信徒との関係」を考えてみたい。

序 論:
 エゼキエル34章1節以降には民に災いをもたらす偽「牧者」(王や指導者)のすがたが記されています。彼らは民に傷を負わせ、痛みを与え、苦しめているだけで、牧者として失格です。
それに対して34章11節以降には真の「牧者」のすがたが記されています。真の牧者とは、
 @自分の群れを探し出し、世話をする。(34:11)
 A良い牧草地で羊を養い、憩わせる。(34:14、15)
 B失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。(34:16)この真の牧者の姿は詩編23編1〜6とヨハネ10:1〜18に描かれています。

本 論:                           
今朝、私は皆さんの「羊飼い」すなわち牧者として、幾つかのことを約束します。聖霊のみ助けによって成し遂げさせて頂きたいと願います。
(1)神のみ言葉と祈りをもって羊である主にある皆さんを青草の原に休ませ、憩いの水のほとり(アルマイム)に伴い、魂に活力を与えるように努めたい。
(2)ムチと杖(メッセージと執り成しの祈りとみ言葉に裏付けされた牧会)をもって正しい道に導きたい。
(3)皆さんの頭に油を注ぎ(祝福)、日々、恵みに溢れさせるように努めたい。
(4)皆さんが傷つき、弱った時には包むことが出来るように努めたい。 
(5)羊である皆さんのために全身全霊をもって仕えたい。(ヨハネ10:11〜18) 

それから、牧者から羊である皆さんに願うことは三つあります。
(1)牧者に信頼してついてきて頂きたい。 「節目」を教会の祈り、牧師の祈りで通過する。(冠婚葬祭、入学、卒業、就職、結婚、定年退職、転居など)
(2)私の声を聞き分けて欲しい。(メッセージをしっかり聴いて、何が求められているのか、何が神のみ心なのかを深く知っていただきたい)    
(3)神のミッション(伝道)に積極的に参加して頂きたい。そして、皆さんが羊を産んで欲しい、すなわち家族や友人・知人を教会に導いて欲しい。教会の信徒は「凍結した資産」(H.クレーマー)であってはならないのです。常に解凍され、いざというときに役立ち、豊かに用いられる器として整えられましょう。

まとめ:
 「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10:16)とあるように、この群れが霊的に一つになり、愛において一つになるように心から願っています。今年度も共に力を
合わせて主のみ業に励みましょう。
「キリストにおいてあなたがたも共に建てられ・・・神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:22)


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