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2008/04/13(日)
「見失った羊」畑中康雄勧士
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信徒礼拝 (聖書)ルカ15:1〜7 ●このたとえ話で羊飼いは、羊が一匹いなくなると残り全部を放っておいてでもその一匹を見つけるまで捜し回り、やっと見つけると嬉しさのあまり近所の人まで呼び集めて一緒に喜んでくれと言ったとあります。 そして、この様な大きな喜びは神様に背いていた人が神のもとに戻って来た時の喜びに似ていると言われるのです。
●百匹の羊は神様の内にある人々であり、そこからいなくなった一匹の羊は神様との関係を絶って自分自身の思いにまかせて刹那的に生きるようになった人、つまり罪人の事を指しています。 そして15章4節に「見つけ出すまで」とありますが、これはその一匹をどうしても見つけ出すと言う「1人1人の魂への個別的な、特別な神の愛」を表し、5節にある「その羊を担いで」とあるのはいなくなった一匹の羊は恐らく長くさまよい歩いて疲れ果てて、もはや歩いては元の場所には帰れなかったであろう羊に対する愛の業を表しています。 疲れのために弱り果ててもはや一歩も動けなくなった放浪の罪人を神様は肩に担いで膝元まで連れ戻してくださると言う事がここでは語られています。
●私たち罪に陥った人間も再び神様の前に出る事が出来るようになるまで、もはや1人で歩いては神の御前に帰る事が出来ないほどに精神的にも肉体的にも疲れ果てているのにちがいないのですが、そんな私たち罪人を神様は「肩に担いで」元の平安な場所に連れ戻してくださる、と言う愛の現れが「肩に担いで」と言う言葉の意味なのではないでしょうか。
●聖書の教えは、99匹の安全のためなら1匹ぐらいどうなっても良いと言う切り捨ての論理ではないのです。このように神様は私たち1人1人を、個別的に愛してくださり探し求めてくださるのです。 この世の出来事を解決しようとする時に「この事さえ無ければ、あの人さえいなければ、と言う切り捨ての理論」では何も解決しないのです。 その切り捨てられる一人が居なくなればまた別な切り捨てられる一人が出てきて最後には自分も切り捨てなければ問題は解決しなくなるのです。 1人1人を大切にすると言う考えが無ければ問題は解決しないのです。その一つ、その1人が大切にされなければならないのです。
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