|
2008/05/04(日)
「ゆるせない苦しみ」ウイルキンズ祐子カンボジア宣教師
|
|
|
特別礼拝 エフェソ4:25〜32 はじめに: 私たちは2002年からカンボジアのプノンペンに遣わされて、「チャイルドケア(250人程度のサポート)「大学生のサポート(40人程度)」「カンボジアにフリーメソジストの教会設立準備」等をとおして宣教と教育の働きに従事しています。 カンボジアで働くようになって、この国はたくさんの「負の苦しみ」を抱えていることを知るようになりました。悲惨な歴史の中で、傷つけられ、痛めつけられた人々が何年経っても相手を憎み続けていること、「ゆるせない苦しみ」を味わっていることを痛感しています。 序 論: 実は私たちも、彼らと同じように「他人を決してゆるせない苦しみ」を持っています。これは世界共通のものです。 今朝のテキストでパウロは「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」と命じ、さらに「悪い言葉を一切口にしてはなりません」と命じていますが、私たちは他人から言葉や態度で受けた傷や無視されたり疎外されたり誤解されたことは決して忘れられず、赦すことが出来ません。そういく苦しみを背負って生きています。 では、この苦しみから解放されるためにはどうしたらいいのでしょうか?聖書から学びましょう。 本 論: (1)まず、自分が神に赦された者であることを知りましょう。神はキリストの十字架の犠牲によって、私たちの罪を赦してくださいました。(エフェソ4:32) クリスチャンは赦された存在です。 (2)神の赦しを知りましょう。イエス・キリストは十字架において、父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのかわからないのです。」(ルカ23:34)と、父なる神に祈りました。 神は徹底的に赦してくださるお方です。(マタイ18:21〜35の譬えを参照) (3)私たちが赦しを選び取ること。私たちは危害を与えた相手を憎み続けるか、赦すかを選び取ることができます。選び取るとは「裁きの主権を神様に委ねることです。私たちが相手を裁くのではなく、神ご自身にその裁きをお任せすること、これが赦しを選び取り、「ゆるせない苦しみ」から解放される秘訣です。 まとめ: 他の人をゆるさない事によって私たち自身が罪を犯さないようにしましょう。(26節)「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」とみ言葉にある通りです。 怒る事はゆるされていますが、罪を犯す事はゆるされてはいないのです。いかなる事があっても「悪魔にすきを与えて」はならないのです。怒りを神に委ねるのです。ご自身の死をもって私たち の罪を赦してくださる神は必ずとりなしてくださり、赦してくださるのです。感謝しましょう。 (ローマ12:17〜21参照)
|
|
|