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2008/06/29(日)
「私たちを生き返らせる神」 大嶋博道牧師
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聖日礼拝 (聖書)コリント一15:1〜11 序 論: キリスト教は復活の宗教です。闇が光に、失望が希望に、滅びが救いに、失われたものが発見され、死んでいたものが生き返ると言う「再生」の教えがキリスト教の中心です。 そのことを使徒パウロは初代教会からの伝承を引用しながら強調しています。 @キリストは私たちの罪のために死なれた事 Aそして葬られた事 B聖書に書いてあるとおり三日目に復活された事 Cケファに、12人の弟子たちの前にそして500人以上の兄弟たちの前に現れた事 Dそして月足らず(低出生体重児)で生まれたわたしの前、即ち不完全な私たちのようなものの前にも現れた事などを述べています。(コリント一15:3〜8)ここではキリストが確かに死なれた事、そして確かに甦られた事を立証しています。
本 論: さて、私たちは本当に生き返るが出来るのでしょうか。 昨今の日本の政治・社会の腐敗、教育現場の混乱、そしてそれぞれの家庭の歪み(家庭が本来の機能を果たしていない)を見る時に、ひょっとして私たちは今、死んだ状態にあるのではないのかと思います。そんな私たちが生き返る(本来の健全な状態に戻る)ためにはどうすれば良いのでしょうか。
そのためには、 @神の霊を吹き込まれる事です(エゼキエル37章3〜5節) 人が生きるためには命の霊が吹き込まれる事、私たちの魂が主のみ言葉によって力を得る事です。創世記2章6節に「その鼻に命の息を吹き入れられた」とある事が実行される事〜神の霊が私たちに吹き込まれる事がその第1条件となります。具体的には神のみ言葉を私たちの魂の奥深くに「常宿させる」ことです。
A死人の中からイエスを復活された神への信仰を持つ事です。 信仰とは、どうしようもない現実(苦悩、試練など)を直視しながらも、それを乗り越えて永遠なる神に向かうことを意味します。ですから信仰は「飛躍(LEAP OF FAITH)」と言っても良いと思います。 そしてどんな時代、どんな世界、どんな状況の中にあっても、「しかし、」わたしは主によって喜び、わが救いの神ゆえに踊る」ということにほかならないのです。
まとめ: ジョンウエスレーは1738年5月24日、「アルダスゲイト街」で開かれた集会に出席し、ルターのローマ書序文に触れて真の回心をしました。彼は「不思議に心が燃えるのを覚えた」と述べています。この体験のあと、真の確信(まさに生き返り)を与えられ、やがて伝道者としての生涯を力強く全うしました。神は私たちを生き返らせてくださいます。
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