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最新の絵日記ダイジェスト
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2008/07/27(日) 「そこで立ち止まらない」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝 (聖書)ローマの信徒への手紙12:1〜8

序 論:
●「人間は変化しながら死の間際まで成長する存在」とはスイスの精神科医P.トウルニエの言葉です。私たちは心身共に成長する存在なのです。また、ペテロの手紙一2章2節に「…霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるため」 とあるように、キリスト者として信仰的にも健全に成長しなければなりません。

 信仰的に真に成長した姿(ゴール)とは、今朝のテキストのローマ12章1〜2節にあるように、
@「自分の体を生きた献げもの(礼拝・献身の原点)とし、A「この世と妥協しない〜この世のスピードに歩調を合わせる必要のない生き方をして神のみ心に添い、神の喜ばれる生き方」をすることであります。

本 論:
●J.ウエスレーは「恵みの手段」として次の5つのことを挙げています。これをキリスト者の健全な成長へのステップとして捉えたいと思います。(この中で、私は「断食」をするのが苦手
です。でも必要なことだと思います。)

@「継続的な祈りをする事」がその第1の手段です。
 祈りは神に近づく大切な手段です。神との霊的交流であり、魂の会話です。ですから先ず祈る事、そしてその祈りは継続的な祈りでなければなりません。絶えず祈り続けましょう。

A第2の手段は「み言葉を探求する事」です。
 聖書は1箇所だけ読むのではなくて全体を読む事が必要です。「一書の人」と自認したウエスレーは旧約・新約の両方を読む必要性を強調しました。そして、日々続けて規則的に読み、読んだみ言葉を生活の中に生かす(適応する)事が必要です。

B第3の手段は「礼拝の中で聖餐にあずかる事」です。
 聖餐はパンとぶどう汁をとおして「イエス・キリスト」を心に刻むこと(記念すること)です。ウエスレーは4日か5日ごとに聖餐にあずかったそうです。それほど、聖餐は恵みの手段として貴い礼典なのです。その事によって自分の信仰を点検する事が出来ます。聖餐を通して自分の中にイエス・キリストが生きて働いておられるかどうかを点検する事が必要です。

C「断食する事」が第4の手段です。
 ウエウレーは木曜から金曜にかけて断食を行ったようです。それは禁欲的なものではなく、その時間を活用して特別な祈りとデボーションに費やしたのです。食べないと言う事はそれだけ時間
が空いてくるのでその時間を神様と向かい合う事に費やす事が出来、神様の恵みを得る事が出来るのです。

Dそして最後に第5の手段は「努めて仲間との交わりを重んじる事」です。
 私たちは1人では生きては行けない存在なので交わりを持つ事によって成長する事が出来ます。
ウエスレーは組会を組織して、しばしば会合を持ち、信徒同士の交わりを深めました。

●私たちは立ち止まる事なく、これで十分だと慢心する事なく、礼拝を守り、献げものをなし、神様のみ心を求めて歩み続けながら信仰的にも成長を願いたい。霊的に成熟していきたいものです。恵みに生きるキリスト者は「そこで立ち止まっていてはいけない」のです。   

2008/07/20(日) 「惜 し む 神」西脇衛士勧士
信徒礼拝 ヨナ書全体(特に4:10〜11)

ヨナ書は聖書の預言書でもユニークな書簡であり、寓話のような面白い話です。

しかしこの出来事はイエス様も史実としてお話になられ、寓話ではないのです。 ヨナ書は神様の命令に背いた預言者ヨナについて書かれていますが、ヨナが主人公ではなく、神樣がヨナを通して語られたメッセージなのです。

●1章では神樣はヨナにニネベに行き「宣教せよ」と命じた。ところがヨナは神樣の前から逃げ出し、反対方向の船に乗り込みます。神樣が嵐を起こさせると乗客は恐れを感じ、この原因がヨナの背信行為にあると知り、希望通り海に投げ出します。

●2章は海に投げ出されたヨナは神樣が用意された大魚に飲み込まれ、三日三晩魚の腹の中で祈り、悔い改めます。

●3章は悔い改めたヨナは魚によってニネベに運ばれます。そこでヨナは神様の命令に従いニネベに「この町は40日すれば滅びる」と預言する。ヨナの宣教によって王を始め、民が悔い改めます。これを見た神樣は滅ぼす事を止められます。

●4章はこの事を知ったヨナは不機嫌になり神さまに言った「神樣は恵みと憐れみの神樣です。宣教によって民は悔い改め、神さまは滅ぼさないないと知っていたのです。こんな事なら死んだほうがましです」と言って町を出て事の成り行きを見届けようとした。

 しかし暑い日差しの中で苦しむヨナを見て、神樣が一夜で大きくなるとうごまを日よけのためにヨナに与えた。神様の恵みに感謝するヨナ。
しかしそのとうごまも神樣が一夜で枯らされる。とうごまが無くなると強い日差しを浴びぐったりとしたヨナはとうごまを惜しんだ。神さまは言われた「お前は自分が育ててもいないとうごまを惜しむのか。私はニネベにいる12万人以上の人をどうして惜しまないでいられようか。」

神様は一人でも滅びることを望んではおられません。ペテロ二3:9-10参照
神様は明日、炉に投げ入れられる野の花を、一羽の雀を、一本の髪の毛に目をとめ、それらが失われることを惜しまれるお方です。このニネベがヨナの語る
福音を受け入れた時、新しい神の民となったのです。奇跡が起きたのです。
神樣は滅び行く私を惜しまれ、救うために二千年前、神の預言者として、ひとり子をこの世に送り、十字架の上で贖いとして命を投げ出して下さいました。

現在、人間の命の何と軽く見られていることでしょうか。神さまは今も一人一人に目を注いで下さり、神様は現代に「ヨナ」を送られ、神さまの救いを受けることを切に願い、待っておられます。私たちは今もこの神様の愛が注がれているのですから日々、平安と感謝を持って歩みたいものです。

2008/07/13(日) 「良い知らせを携えて」大嶋博道牧師
伝道献身者奨励礼拝 (聖書)列王記下7:1〜11

〔伝道献身者奨励礼拝〕
●今日は伝道献身者奨励礼拝を守りますので次の三つの事を覚えてお祈りください。
@現在、神学校で学んでいる神学生を覚えてお祈りください。
A次の世代を担う神学生が起こされる事を覚えてお祈りください。私たちの教会も後継者生まれるために祈らなければなりません。
B本日の礼拝献金は教団の伝道献身者育英資金に納めさせていただきます。

序 論:
〔テキストの学び〕
●今日の物語の背景・流れは「アラムの軍隊がサマリヤを包囲した」→「その時はサマリヤは大飢饉であった」→「このような危機的な状況になったのは預言者エリシャのせいだと思われてエリシャを殺そうとしていた」→「エリシャは明日には小麦粉・大麦等の生活必需品がただ同然の値段で売られると言う預言をしたが人々はこれを信じなかった」と言うものです。

●さて、城門に重い皮膚病を患っている4人の者がいて「どの道、自分たちは死ぬ身なのだからアラムの陣営に投降しよう」と話し合ってアラムの陣営のはずれまで来たところ、そこにはだれもいなかった、と言うのです。何故なら主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせた為です。彼らはアラム軍が退散したとき残して行ったものを飲み食いし、金や銀を運び出して自分のものとしたのです。しかし、この「良い日」を自分たちだけのものにするのでなく、城門の中にいる同胞にも味わってもらうため知らせることにしたのです。そこで重い皮膚病を
患っていた4人の者たちは城門の中に入り、町の門衛を呼んで、自分たちが体験した良い出来事を伝えたのです。
 
本 論:
●さて、この事から二つのことを学びたいと思います。
@4人の人が体験したように、今日が「良い日」であることを確認しよう。(コリント二6:2)
私たちにとって「今日」は生きることを許されている恵みの日・救いの日なのです。

A「良い日」を人々に告げる足になりましょう。
「良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか」とある通りです。(ローマ10:15)
モーセもイザヤもエレミヤも召しを受けた時に、自分の弱さを神に訴えました。
しかし、神は彼らの弱さを用いて下さったのです。私たちも欠けだらけであっても、「良き訪れ」を伝える足になりたいものです

2008/07/06(日) 「愛にしっかりと立つ者」大嶋博道牧師
総員礼拝・聖餐式  エフェソ3:14〜19

〔今年の教会標語に目を向けて〕
●7月に入り、今年の後半に入りました。先ずは、今年の教会標語「愛のうちに建て上げられよう」をもう一度振り返ってみましょう。
 教会はキリストの体です。この標語を実行するためには、教会の手や足を構成している私たち一人一人は信仰によってしっかりと組み合わせられる事によって教会を建て上げる事が出来ます。またこの世の生活の中でも私たちが愛のうちに建て上げられる
事によって家庭も個人も建て上げられるのです。

 そのためには、日々聖書に親しみ、内面から霊的になり、礼拝を大切にし、謙遜であり、平和の絆を保ち、お互いに相手の必要に応答する事が出来るようにならなければなりません。
 この標語を掲げて半年経ちましたが皆様お一人お一人は果たしてどうでしょうか。
今一度「愛にしっかりと立つ者」について学んでみたいと思います。

●今日の聖書のみ言葉の14節以下にパウロの3つの祈りがあります。その祈りの中に「建て上げるあり方」が記されていますので、学びましょう。

@霊の力により「内なる人」を強めると言うのがその第1です。パウロは外面の強さよりは内面の強さを大切にしています。外側をどんなに着飾ったり、整えても、内面すなわち「魂」を強めなければ、決して強いとは言えません。パウロは「見えるものは一時的であり見えないものは永遠に続く」と言ってます。(コリント二4:18)

A信仰によって心の内にキリストが住んでくださると言うのがその第2の祈りです。「内住のキリスト」となってくださいという祈りです。しかも、キリストの内住は一時的ではなく永続的に住んで下さいとの切実な祈りです。それは、私たちの心の主人公としてキリストが私の内側に宿ってくださるようにと言う祈りです。
 私はかつて息子を膝の上に乗せて運転したことがあります。息子は自分でハンドルを握って右や左にハンドル操作をして楽しんでいました。彼は誇らしげに車を動かしていました。
しかし、実は私が彼のハンドルを握った手の下で、しっかりとハンドルを支え、左右に上手に操縦していたのです。
それと同じように、神様は私の人生のハンドルをしっかりと握っておられるのです。

B私たちを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるようにと言うのが第3の祈りです。生活のすべての事柄は「愛」を基盤にし、愛を土台にしてその上にしっかりと生活を据えたいと願います。それこそが、最も祝福される、幸いな姿なのです。
 この3つの祈りは、今年の教会標語を全うするために大切なものなのです。

●最後になりますが、いったい「愛」とはどのようなものなのでしょうか?
「愛」とは次のような特徴を持っていると言えます。
@愛は犠牲を伴います。
A愛は傷つき痛みます。
B愛は損を引き受けます。
C愛は自分が大切にしているものさえも失います。
D愛はひたすら耐え忍びます。
E愛はひたすら待ち続けます。
 今年一年の中で、一つでも「建て上げられるよう」全力を注いで信仰生活に励みましょう。祝福をお祈り致します。



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