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2008/08/31(日) 「信仰が子孫に宿るために」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)申命記6:1〜9/テモテ二1:3〜5

序 論:
 2009年に日本宣教開始150周年を迎える。クリスチャン人口は日本人口の1パーセントにも達していません。日曜ごとに礼拝を守り、イキイキと信仰生活を送っているクリスチャン人口は1パーセントにも及ばず、0.3パーセントほどだとも言われています。
その原因を堀越牧師は、「日本宣教再考セミナー」で、次の4つにまとめています。
@祖先祭祀(さいし=敬い、拝礼すること)
A神々の偶像(すべてのものに霊が宿っているという汎神論)が多くの日本人を支配している。
B進化論が学校教育現場で教えられ、またNHKなども進化論を基礎に置いて放映している。
C性善説的人間観の影響で、聖書の罪の理解が出来ない。

 しかしながら、教会内部に目を向けますと、「信仰の継承」に問題があるのではないかと思われます。つまり、私たちの信仰が子どもに、孫に、さらに後々の子孫に受け継がれて行かないという、信仰継承の限界であります。
 信仰が見事に子孫に継承された事例は若き伝道者テモに見られます。テモテに受け継がれた純真な信仰は母ユニケ、さらに祖母ロイスによるものです。つまり、祖母、母をとおしてテモテに信仰が宿ったのです。(宿るとは、内住する、テントを張るという意味で、信仰がその人の奥深くに浸透していることを表しています。)

本 論:
 私たちの信仰が家族の中に根付き、子どもたちや孫たちの世代にまで継承されるためには、幾つかのことが求められます。今朝はその中で最も大切と思われる3つのことをお伝えします。

(1)洗礼を受けたクリスチャンは家庭や職場で公に信仰を告白すること
 教会は告白共同体です。そこに連なるクリスチャンも「イエスは主である」と告白します。パウロも「口でイエスは主であると公に言い表し、心で・・・信じるなら、あなたは救われます」と述べているように(ローマ10:9〜10)私たちは日々、家族や親しい人たちに「イエスを告白しながら」生きているのです。 「私はイエス・キリストを信じています」「私はクリスチャンです」「私は教会の礼拝に集っています」などと告白すること、公言すること、言い表すことは非常に大切なことなのです。

(2)具体的に「祭壇」を築いて、それを示すこと
 アブラハムもイサクもヤコブも信仰生活の節目で必ず「祭壇」を築いて、主を礼拝しました。
(創世記12:7〜8,13:4,,22:9,26:25,33:20,35:1,3,7)
祭壇を築くというのは、家庭にあって祈りと賛美とみ言葉に親しむ聖なる時を持つということ。
信仰生活は「具体的=見える形で実践すること」でないと、家族や親しい友人に伝わらない。
家庭の中で、自分が人生をかけて信じている神様が生きていることを証するのが「祭壇」を築くことなのです。

(3)愛の業、奉仕の業に励むこと。
 結局、私たちがクリスチャンであることを具体的に証するのは「愛の業」「奉仕の業」ではないでしょうか。
私たちが喜びと感謝に溢れて忠実に「愛」と「奉仕」を実践するときに、家族や周囲の人たちは、その「行い」を見て、その喜びと感謝の心に触れて、私たちがクリスチャンであることを素直に認めてくれるのです。 
コロサイ3:12〜17を参照にしてください。

まとめ: 
 私たちの信仰が後の世代に脈々と継承されるために、聖霊の働きを切に祈り求めましょう。
日々、信仰を公に言い表しましょう。特に、節目においてはなおさら、明らかにしたいものです。
具体的に「祭壇」を築いて主を呼び求め、真実な礼拝をささげましょう。そして、信仰を生きた見える具体的な形にするために「愛」の業に励みましょう。最後に残るのは「愛のわざ」です。
時間がかかりますが、決して諦めないで、焦らないで、たとえ何年、何十年かかっても忍耐をもって信仰を次世代に継承しましょう。祝福を心からお祈り致します。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)

2008/08/24(日) 「日々の暮らしの中の信仰」大嶋博道牧師
フレンズサンデー礼拝 (聖書)ヘブライ人への手紙11:8〜22

序 論:
 ヘブライ11章には「信仰」という言葉が繰り返し出てきます。全部で21回。そして、その「信仰の定義」が記されています。ある訳では
(1)信仰とは希望するものの保証もう一つは、(2)見えないものの証拠 というのです。
 著者はそのことを明確にした上で、読者に「信仰によって」アブラハムを初めとする旧約聖書の登場人物が人生の中で、いかに神を信頼して、信仰に生き抜いたかを紹介しています。今朝は、アブラハムにスポットを当てて、彼がいかに「日々の暮らしの中
で信仰に生きたか」つまり、「彼の日常生活の中で、いかに信仰が大きな影響を与えたかを見ていきたいと思います。

 ところで、私たちの「信仰」は日常生活の中で本当に良い影響を与えているでしょうか?具体的に言えば、朝起きて、食事をし、仕事や学びに出かけ、あるいは子育て、家族との交わり、社会との関わりの中で、祈ること、賛美すること、聖書を読むこと、教会に行くことなどがどのようにつながっているかということです。
教会生活は教会生活、家庭は家庭、仕事は仕事、全く影響も与えていなければ、つながらないという方はおられませんか?果たして「信仰」と「日々の暮らし」はどう関わっているのか?これが今朝の中心的なテーマです。

本 論:
(1)信仰によって、人生は一回限りの冒険の旅であることを知る。
 私たちの人生は「決められた予定のコースをきちんと歩んでいく」、というよりも、アブラハムと同様に「行き先を知らないで」未知の世界に冒険的に歩んでいくようなものです。「あなたを祝福する」という神の約束を信じて、未来に向かって歩み出すのは正に信仰による行為であり、人生そのものです。

(2)信仰によって、家族と共に生きて共に暮らす。
 アブラハムは約束の子イサクを与えられ、さらにヤコブを初めとする12人の孫を与えられ、ひ孫であるヨセフをやがて与えられました。「家族を形成し、家族と共に生き抜いた」のは、まさに信仰によってであります。

(3)信仰によって、試練を受け、それを乗り越える(克服)することが出来た。
 ヘブライ人への手紙には「忍耐」という言葉が頻繁に使われています。それは信仰を強調するときに「忍耐」が求められるからです。人生において出会う多くの困難や課題を耐え忍びつつ、キリスト者としての生涯をまっとうするように訴えています。アブラハムの生涯も信仰と忍耐が表裏一体になったものでした。

(4)信仰によって、自らの最期(死)を神に委ねることが出来る。
 人はいつかこの世の生活を終えて、天国に帰ってきます。地上で永遠に生きることはだれにもゆるされていないのです。自分の最期のことを、家族に指示するというのは、余程の信仰がなければ出来ません。ヨセフは臨終に臨んで、それを家族に指示し(創
世記50:25)、ヤコブも子ども達に指示しています。(創世記)47:29〜30) 私たちは信仰によって生も死も神に委ねて平安に生きることが出来るのです。

まとめ:
信仰は、日々の暮らしからかけ離れたものではなく、無関係のものではなく、まさに信仰の中に暮らしがあり、暮らしの中に信仰が働いているのです。(詩編31:15)

2008/08/17(日) 「各人の責任」畑中康雄勧士
信徒礼拝 (聖書)エゼキエル書18:1〜24

●キリスト教では「人間は元々生まれながらにして罪人なのでキリストの十字架によってのみ天国に入る事が出来る。天国とはヨハネ黙示録21章4節にあるように「もはや死もなく、悲しみも嘆きも、労苦もない世界」であり、そうでない世界は21章8節にあるように「火と硫黄の燃える池」則ち、第2の死と言われています。聖書には天国・地獄が具体的に書かれている箇所は少ないのですが、私が印象に残っている天国と地獄の様子が書かれているみ言葉は、ルカによる福音書第16章19節以下の「金持ちとラザロ」の物語です。

●私がまだ教会に行っていなかった20才くらいの頃、先祖の霊の祟りに悩まされた事があります。その呪いから解放されたのは教会に行くようになり、エゼキエル書18章の物語を読んだ時でした。

●エゼキエル書18章は「神様の定めを守るならばその人は必ず生き、その人の子どもが神の定めを守らなければ、たとえ正しい行いをした父の子どもといえども必ず死ぬ」即ち死ぬのは本人の犯した罪によるのであり、正しい人の正しさもその人のみのものであると教えています。つまり私が苦しんだ思い〜先祖の良くない行いが私を苦しめると言う事はないと聖書の神は教えているのです。さらに21節〜では過去に犯した悪が、現在の在り方に対して拘束力を持つものではない事を解き明かして、あなたが今、悔い改めるならば過去の罪は赦されると説いています。

●キリスト教では、特にプロテスタントでは罪を赦す事が出来るのは神のみであり、従って生きてこの世で生活している間に神に義とされなかった者は死後に救いを得る方法はなく、出来るのは唯一つ生きている間に聖書の教えに耳を傾けてイエス・キリストを主と告白する事なのだと教えています。そしてそれは1人1人の問題であって親が救われていたからと言って子どもが救われる、また親が救われていなかったからと言って子どもが救われないと言う問題ではないと言うのです。
救われるためには、各人の責任においてイエス・キリストを信じ、神の言葉である聖書を信じて日々罪の懺悔をなし、神に赦しを乞うならば神の僕として雄々しく生きていく事が出来ると言う
事がみ言葉によって私たちには約束されているのです。  

2008/08/10(日) 「平和―あなたの敵を愛しなさい」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)ルカ6:27〜36 
〔説教のレジメをとおして〕
人間は何故争い、傷つけ合うのでしょうか?8月6日は広島に、9日は長崎に原爆が投下され、15日は終戦記念日です。8月は平和を願う月なのです。

□隣人とはだれなのか?
 さて、「隣人」とはどのような人を言うのでしようか。それは「隣に住む人」であり、「生活共同体を共にする人」であり、「仲間」であり「もう1人の自己」なのです。言い換えるならば「隣人」とは自分に危害を加えない人であり、自分に好意を寄せてくれる人です。この隣人愛についてキリストは「行ってあなたがたも同じようにしなさい」と言われているように「他者と積極的に関わる事」を教えておられます。

□敵とはどのような存在なのか?
 そして「敵」とはどのような人を言うのでしょうか。それは、(私・大嶋が思う敵とは)「自分に嫌な思いをさせる人」「私を相応しく扱ってくれない人」「私に迷惑をかける人」「私を認めてくれない人」だと思います。

□「目には目を歯には歯を」と言われているが・・・
 さて、「目には目を、歯には歯を」と言う諺がありますが、これは自分が受けた以上の復讐をしてはならないと言う意味が含まれています。 
イエスはこの「敵」に対して、その敵の為に、
@その敵を愛しなさい。
Aその敵に親切にしなさい。
Bその敵の祝福を祈りなさい。
Cその敵の為に祈りなさい、と今日のみ言葉を通して教えておられます。

□敵を愛するとは?
 「敵を愛する」とは一体どのような事を言うのでしょうか。それは「敵である人の存在を否定せず」「その敵の存在のために祈る事」「その敵の存在と共に関わりを持って生きる事」なのです。この事を可能にするのはエフェソ2章14〜18節に教えられている通りなのです。則ち「…実にキリストはわたしたちの平和です。二つのものを一つにし…敵意と言う隔ての壁を取り壊してくださり、その代償として十字架の上で死んでくださいました」

 ですから「愛」には痛むこと、傷つくこと、時には自分のいのちを犠牲にするほどの代償を伴うのです。だから「愛」はいつまでも絶えることがないのです。
「敵を愛する」ことを生涯のテーマにしてキリスト者として信仰生活を送りたいものです。

2008/08/03(日) 「キイスト者の人生姿勢」大嶋博道牧師
総員礼拝 ヘブライ12:1〜2

序 論:
●私たちが日々の生活の中で、どのように生きようとしているのか、どこに目を向けて
生きているのかと言うことで人生の方向が決まってきます。
聖書の中にその反面教師を見るならば「アブラハムの時代のロトの妻」(神の命に背いて後ろを見、塩の柱となりました)、イエスに目を向けないで風に目を向けたペテロ(湖上で風に目を向けたので怖くなりおぼれかけました)、そして財に目を向けて命を絶たれたアナニヤとサッピラなどがいます。
私たちの視線の先には私たちの心があります。そこには関心事があります。では、私たちはどこに目を向けて生きれば良いのでしょうか。

本 論:
●それは次の2点に集約する事が出来ます。
@フィリピ3章12〜14章に「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向け」なさいとあります。なぜ、後ろのものを忘れるのか?それは、過去にはゴールが無いからです。
過去には目標が無いからです。そして、前には目標があります。ですから、前のものに全身を向けて歩むと言う事がその第1の事なのです。

Aヘブライ12章2節に「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」歩もう、とあります。第2の目のつけどころとは「イエス・キリストを見つめながら歩む」と言う事なのです。「イエスを見つめながら」とは、イエスから目を離さないで、イエスに釘付けにされながらということであり、具体的には礼拝生活であり、日々のデボーション生活であり、神のみ言葉に傾聴する生活であり、献身と奉仕の生活です。このお方に私たちの全てを委ねて人生を走り抜けたいものです。

まとめ:
 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリント二4:18)のみ言葉のように、見えないもの(永遠)に目を向けて歩み続けたいものです。


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