|
2008/08/17(日)
「各人の責任」畑中康雄勧士
|
|
|
信徒礼拝 (聖書)エゼキエル書18:1〜24 ●キリスト教では「人間は元々生まれながらにして罪人なのでキリストの十字架によってのみ天国に入る事が出来る。天国とはヨハネ黙示録21章4節にあるように「もはや死もなく、悲しみも嘆きも、労苦もない世界」であり、そうでない世界は21章8節にあるように「火と硫黄の燃える池」則ち、第2の死と言われています。聖書には天国・地獄が具体的に書かれている箇所は少ないのですが、私が印象に残っている天国と地獄の様子が書かれているみ言葉は、ルカによる福音書第16章19節以下の「金持ちとラザロ」の物語です。
●私がまだ教会に行っていなかった20才くらいの頃、先祖の霊の祟りに悩まされた事があります。その呪いから解放されたのは教会に行くようになり、エゼキエル書18章の物語を読んだ時でした。
●エゼキエル書18章は「神様の定めを守るならばその人は必ず生き、その人の子どもが神の定めを守らなければ、たとえ正しい行いをした父の子どもといえども必ず死ぬ」即ち死ぬのは本人の犯した罪によるのであり、正しい人の正しさもその人のみのものであると教えています。つまり私が苦しんだ思い〜先祖の良くない行いが私を苦しめると言う事はないと聖書の神は教えているのです。さらに21節〜では過去に犯した悪が、現在の在り方に対して拘束力を持つものではない事を解き明かして、あなたが今、悔い改めるならば過去の罪は赦されると説いています。
●キリスト教では、特にプロテスタントでは罪を赦す事が出来るのは神のみであり、従って生きてこの世で生活している間に神に義とされなかった者は死後に救いを得る方法はなく、出来るのは唯一つ生きている間に聖書の教えに耳を傾けてイエス・キリストを主と告白する事なのだと教えています。そしてそれは1人1人の問題であって親が救われていたからと言って子どもが救われる、また親が救われていなかったからと言って子どもが救われないと言う問題ではないと言うのです。 救われるためには、各人の責任においてイエス・キリストを信じ、神の言葉である聖書を信じて日々罪の懺悔をなし、神に赦しを乞うならば神の僕として雄々しく生きていく事が出来ると言う 事がみ言葉によって私たちには約束されているのです。
|
|
|