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最新の絵日記ダイジェスト
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2008/09/28(日) 「神の業が現れるために」西脇衛士勧士
信徒礼拝  聖書(ヨハネ9:1〜12)

今日の聖書の箇所は障害者の集いによく使われる所です。(この出来事は9章全体に及ぶ)
 この箇所はイエス様と弟子との問答から始まります。
一人の盲人を指して彼が目の見えない事の原因を探ろうとしました。イエス様は彼が目の見えないことの原因ではなく、その目的を語られた。そして「この盲人を通して神の業が現われるため
である」と言われました。
 現世の苦しみや悲しみは何故あるのか。何のためにあるのか。そしてここで言う「神の業」とは何でしょうか。
 
今日の聖書に出てくる盲人は、イエス様が言われたとおりにシロアム(遣わされた者)の池に行き目を洗うと見えるようになった。この盲人の目がいやされるという事において神様の業が現われたと言えます。
 以前、盲人の人たちと聖地旅行に行ったとき、このシロアムの池に行くことを希望し、連れて行ってもらった。多くの盲人の方が、この池で目を洗っている光景が印象的でした。彼らの幾人かは生まれながらの盲人であり、死を何度も考えた人達である。が誰も目をいやされた人はいませんでした。しかし彼らは目が見えないという現実の中で主を賛美し、喜びにあふれた信仰生活を続
けておられます。
 
今日ここに目と耳しか機能が残されていない水野源三さんをご紹介します。 
彼は1937年長野県埴科郡坂城町に生まれ、小学4年生の時に集団赤痢にかかり、目と耳以外の機能を奪われる。生涯6畳の部屋から一歩も出ることなく47年の生涯を送られた。
 母が作った50音の表に一文字づつ目で合図を送り、まばたきの詩人として4冊の詩歌集を発刊している。その題が「わが恵み汝に足れり」等です。 彼もまた多くの障害者と同じように両親を恨み、神を恨んだ日々を歩んだのです。

 神様の業は何時、どこで、どの樣にして彼に現われたのでしょうか?
進行性筋萎縮症を抱える宮尾牧師より福音を聞かされ、深い認罪によって悔い改め、キリストを救い主と信じ、洗礼を受けます。神の業が始まっていたのです。救いの喜びが神を賛美する詩となり歌となったのです。
 水野源三さんに神様を喜び、賛美する神様のみ業が現われたのです。ある時、弟子たちがイエスに尋ねました。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」
 イエス様は「神がお遣わしになった者(シロアム)を信じること、それが神の業である」と言われた。(ヨハネ6:29)
 目を開かれた盲人も「主よ、信じます」と信仰の告白をしています。(9:35−37)

○神様のして下さる業は・・
@私たちに福音を聞かせ
A自己の認罪と悔い改めに導き、そしてイエス様を私の救い主として受け入れ、新しい人生へと導いて下さいます。
B新しい性質を持つ者として下さいます。
C全き愛の人に変えてくださいます。  

○私たちがなすべき神の業とは・・
@主の十字架と復活を信じ、
Aイエス様につながり続けることです。

 ここに人を神の形に回復する神様の業の完成があります。そこに私たちの生きる目的があるのです。水野源三さんのように現実を直視しながら、主に繋がり、日々喜びと、賛美をする者として歩んで生きたいものです。

2008/09/21(日) 「12の証の石碑を立てて」(北米:滝谷良一牧師)
献堂12周年記念礼拝 (聖書)出エジプト24:3〜8,マタイ19:23〜30

はじめに: 
 献堂12周年記念礼拝にお招きをいただき、心から感謝致しております。御教会が益々、主の御導きの元に成長することを祈っております。

序 論:
聖書の中には特徴のある数字が出てきます。例えば「3=イエスの三日目の甦り」、「7=天地創造」「40=荒野の旅、断食など」、そして今朝のメッセージに登場する「12=イスラエルの部族、イエスの弟子など」であります。御教会の12周年は誠に聖書的です。
 出エジプト24:4によると、モーセは神と民との契約の締結にあたり、「12の石の柱」をイスラエルの12部族のために建てました。これは神との契約を守るというイスラエルの民の誓いのしるしでした。創世記の31章で、ヤコブは舅のラバンとの間に契約を結んだとき、石塚を築いてそれを記念碑としました。これも契約を守る誓いのしるしだったのです。
 かつて旧約の人々は動物の生け贄を献げて神との和解のしるしとしましたが、新約においてはイエス・キリストご自身が十字架上にいのちを犠牲にされることによって、神と人間との間の契約の仲保者になられました。ですから、私たちは動物の生け贄ではなく、イエス・キリストをとおして信仰によって神と和解することが出来るのです。(ヘブル8:6,9:11〜12,9:15参照)

本 論:
さて、教会は新しい霊的なイスラエルです。 実は教会こそ「12の石碑の柱」なのです。それは、神がイエス・キリストにおいて私たちとかわされた「契約」のしるしであります。
 ペトロの手紙一2:4〜5によりますと、@イエス・キリストは「ただ一度(ハパックス)」人類の罪を贖うために十字架に架かられました。このお方こそ「生きた尊い石」なのです。(2:4)
A私たちもこのお方のところに来て留まることによって生きた石として用いられたいものです。そして
B聖なる祭司として神に喜ばれる者とされましょう。
 私たちは近隣の人、病気の人、苦しんでいる人のために神に執り成す「祭司」であることを心に刻みたいと思います。また、家族や隣人や職場の人々の祝福の存在になりたいものです。

まとめ:
 私たちは選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民として信仰生活を送りたいと思います。献堂12周年を迎えた神戸ひよどり台教会は「12の証の石碑」です。そこに連なる主にある信徒たちも「証のための存在」です。
日々、「証の石碑」を立て続けましょう。祝福を心からお祈り致します。


2008/09/14(日) 「主に導かれてE二人の主人」畑中勧士
信徒礼拝 (聖書)マタイ6:24

●「冨」について
@「冨」即ち「金銭」について、聖書には幾つかの戒めのみ言葉があります。
先ず、テモテへの手紙Tの6章9〜10節では「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、全ての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」とあります。お金を愛したが故に命を失った悲しい物語が使徒言行録「アナニヤとサフィラ」の物語にあります。(4章32節〜5章11節)

Aしかし、イエスは「金銭の必要性」を決して否定されてはいません。私たちが生きていくために必要なものとして認めておられます。ただ金銭に頼る事は否定されています。例えば、マルコによる福音書6章8節とかマタイによる福音書6章32〜33節です。

Bジョン・ウェスレーも「出来るだけもうけよ。出来るだけ貯めよ。そして出来るだけ与えよ」と言われているように冨そのものは認めています。また、内村鑑三先生は「後生への最大の遺物」という本の中で「我々が後生へ残す遺物」の中で第一番目に挙げられるものとして「金銭」を挙げられています。それは己の子孫に遺していくと言う事ではなくて、社会に遺していくと言う事、己のためにではなくて神の国のために遺していく事が大切であると言われています。

(私の経験を幾つか語らせて頂きます)

●ふたりの主人からひとりの主人へ
 私たちがこの世で生きていく上で「神の教え」に重点を置いた生き方をするのか、「地位・名誉・冨」と言うこの世的なものに重点を置いた生き方をするのか、則ち「ふたりの主人に仕えるのか」「ただひとりの主人、即ち神のみに仕える生き方」をするのか、と言う事があります。
 
来週〜9月21日(日)には私たちの神戸ひよどり台教会では新会堂献堂記念礼拝と会員の研修会が持たれます。研修会のテーマはクリスチャンがこの世で生きていくために如何に「地域とかかわっていくか」「職場とかかわっていくか」そして「家族とかかわっていくか」と言うキリスト者として厳しいテーマが選ばれています。
 私が今朝語らせていただいた私の経験・生き方はキリスト者としてふたりの主人のうちのどちらの主人を選ぶかというクリスチャンとしての生き方の一端なのです。曖昧に二人の主人に仕えて生きていく生き方から、聖書に忠実にひとりの主人に仕えて生きていく生き方〜人生の価値判断基準を聖書に求める生き方へと人生のハンドルを切りたいと思います

2008/09/07(日) 「エベン・エゼル(主は今に至るまで)」大嶋博道牧師
総員礼拝 (聖書)サムエル記上7:7〜12

はじめに:
〔9/21の献堂12周年を迎えるに際して〕私たちの教会は1986年3月伝道所開設、1991年4月教会設立1996年9月新会堂献堂、そして今日に至っています。
序 論:
●今日のみ言葉の中心は12節の「今まで主は我々を助けてくださった(エベン・エゼル)〜助けの石〜」です。
サムエルは「石」を建てる事により目に見える形で「主は助けてくださった」と告白した。
聖書によるとサムエルには神様が常に一緒にいてくださいました。(サムエル上・3章19節)そして神様がサムエルに言われた事はことごとく成就しました。ペリシテとの戦い、「神の箱」
の変遷などをとおして最終的には神様はイスエラルに勝利をもたらし、最善を成して下さいました。

本 論:
●今日のみ言葉から「過去に対する感謝」と「再出発への決意」を学ぶ事が出来ます。
私たちが「助けの石」を建てようとしたら、何に感謝をして建てたら良いのか、そしてそれをどこに建てたら良いのか考えてみましょう。

●私個人としては、この団地での開拓伝道を示され、10年間のサラリーマン生活を辞め、会堂に転用可能な土地と建物が与えられて「明石上ノ丸教会ひよどり台伝道所」がスタートし、5年後に教会として独立し、開拓から10年後に多くの方々の祈りと犠牲の献げ物により、木造の新会堂を建て上げることができました。今、100名に及ぶ会員が与えられています。これは神様がなしてくださった大きな祝福の業です。私はこの事に感謝して「エベン・エゼル」を置きたいと思います。神のなさる事は本当に不思議な業でした。素晴らしい事であったと感謝しています。この事が私のエベン・エゼルです。

●エベン・エゼルの信仰に固く立つためには次の信仰が必要です。
@コヘレト3章10節―「神はすべてを時宜にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられる(神のなさる事は皆その時にかなって美しい)」
Aロマ8章28節―「万事が益となるように共に働いてくださる」
B創22章14節―「ヤーウェ・イルエ(主の山に備えあり)」

まとめ:
献堂12周年を迎えるに際して、主が今までなして下さった驚くべきみ業に心から感謝すると共に、これからの歩みに対して、み心と信じて描いたビジョンは必ず実現することを確信して次世代への積極的な伝道を進めて行きたいと願っています。
この信仰に立って「過去に対する感謝」と「再出発への決意」のエベン・エゼル(助けの石)を建て続けたいものです。(祈る祝福)


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