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2008/09/14(日)
「主に導かれてE二人の主人」畑中勧士
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信徒礼拝 (聖書)マタイ6:24 ●「冨」について @「冨」即ち「金銭」について、聖書には幾つかの戒めのみ言葉があります。 先ず、テモテへの手紙Tの6章9〜10節では「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、全ての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」とあります。お金を愛したが故に命を失った悲しい物語が使徒言行録「アナニヤとサフィラ」の物語にあります。(4章32節〜5章11節)
Aしかし、イエスは「金銭の必要性」を決して否定されてはいません。私たちが生きていくために必要なものとして認めておられます。ただ金銭に頼る事は否定されています。例えば、マルコによる福音書6章8節とかマタイによる福音書6章32〜33節です。
Bジョン・ウェスレーも「出来るだけもうけよ。出来るだけ貯めよ。そして出来るだけ与えよ」と言われているように冨そのものは認めています。また、内村鑑三先生は「後生への最大の遺物」という本の中で「我々が後生へ残す遺物」の中で第一番目に挙げられるものとして「金銭」を挙げられています。それは己の子孫に遺していくと言う事ではなくて、社会に遺していくと言う事、己のためにではなくて神の国のために遺していく事が大切であると言われています。
(私の経験を幾つか語らせて頂きます)
●ふたりの主人からひとりの主人へ 私たちがこの世で生きていく上で「神の教え」に重点を置いた生き方をするのか、「地位・名誉・冨」と言うこの世的なものに重点を置いた生き方をするのか、則ち「ふたりの主人に仕えるのか」「ただひとりの主人、即ち神のみに仕える生き方」をするのか、と言う事があります。 来週〜9月21日(日)には私たちの神戸ひよどり台教会では新会堂献堂記念礼拝と会員の研修会が持たれます。研修会のテーマはクリスチャンがこの世で生きていくために如何に「地域とかかわっていくか」「職場とかかわっていくか」そして「家族とかかわっていくか」と言うキリスト者として厳しいテーマが選ばれています。 私が今朝語らせていただいた私の経験・生き方はキリスト者としてふたりの主人のうちのどちらの主人を選ぶかというクリスチャンとしての生き方の一端なのです。曖昧に二人の主人に仕えて生きていく生き方から、聖書に忠実にひとりの主人に仕えて生きていく生き方〜人生の価値判断基準を聖書に求める生き方へと人生のハンドルを切りたいと思います
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