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2009/01/25(日) 「委ねて生きる」 畑中康雄勧士
フレンズサンデー使徒礼拝 (聖書)箴言16:1〜3

「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」
今日は神様と私たちとの間の信頼関係について学びます。今日の聖書の箇所に「あなたの業を主にゆだねれば、計らう事は固く立つ」と言うみ言葉があります。ここで「ゆだねる」とは「転がせ」と言う意味があります。大きな、人を圧するような大きな重い石を転がす事を言います。私たちは毎日の生活の中で、その負わされている大きな重荷に耐えかねて、自分にはどうする事も出来ないと感じて疲労困憊する事があります。そんな時に主はその重荷を私に転がせ、〜主に任せよ、と言われるのです。そうする事により「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」のです。

あなたは神様を信頼していますか?都合の良い時にのみ「神様、神様」と言ってはいないでしょうか?神様はどんな時にでも私たちの方を向いていてくださるのに私たちは都合の良い時にのみ神様の方を向いていると言う事はないでしょうか。

 ノアは「まだ見ていない事柄について御告げを受け、恐れかしこみつつ、箱船を造りました。」その信仰に基づき義を受け継ぐものとなりました。
 ノアのように純粋に神様に従わなかった1人の人が聖書に出てきます。それはヨナです。「ヨナ書」によると、主が大いなる都ニネベに行くように言われます。しかし、ヨナは主から逃れようとして主が言われたニネベではなくて、タルシシュに向かう舟に乗ります。」主の目から逃れようとしたのです。その結果「主は大風を海に向かって放たれたので海は大嵐になりヨナは舟の乗組員に海に放り込まれます。ノアのような信仰深い姿よりは、ヨナ
のように主に背き、反発しそれでも主は捉えてくださると言うのが不信仰な私と神様の関係を表しているように思えるのです。

 時として神様から逃れようと思い、神のご意志に背いて生きてしまう事があっても神様はそのご計画の中で私をしっかりと捉えていてくださると言う事を幾度となく経験しました。
最終的には私がなそうとする業を主にゆだねる事により〜主を信頼して全てをお任せして主のご命令に従うときに私の計画は主に祝福されて成就すると言う事を経験してきました。

 どんな苦難に会おうとも「Tコリント10章13節」にある「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時にそれに耐えられるように、逃れる道も備えて下さるのである。」とのみ言葉を信じて、「委ねて生きる」とのみ言葉の通り全てを主に委ね、新しく迎えたこの一年を歩んでいきたいものと思います。           

2009/01/18(日) 「みことばに生かされて」大嶋博道牧師
 教会標語を学ぶ礼拝にて(聖書)コリント二 10:12〜17
序 論:
 今年は標記のように「みことばに生かされて」という教会標語を与えられた。この標語を示された理由は幾つかある。
 その一つは、「みことばに生かされる」ことはクリスチャンの信仰生活の基本であり、まさに「基軸」だからである。クリスチャンは「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳(神のみことば)を慕い求める存在である。
 
二つめは、信徒の信仰の成長を願うからである。依然として閉塞感と不況が日本の社会を覆っている。「閉塞感」とは出口(将来)が塞がれていて見通しが立たないことを意味する。それは、教会の中にも入り込んで来ている。教職や信徒の高齢化、次代の教会の働きを担う献身者の不足、青少年や子どもたちの減少、そして何よりもクリスチャン(信徒)の「霊性」の低下である。
 現代の複雑な社会状況の中で、社会人として精一杯生きながら、同時に神のみ旨に沿って、みことばに従って神が求める「聖なる生活」をするということがどういうことなのか、またどう行動すべきなのか、それは信徒が信仰生活の中で自ら模索し、答えを見出していかなければならないことである。だからこそ
「みことばに生かされる」ことの 意味は大きいのである。
 
三つ目は、伝道への使命に燃えて歩みたいからである。言うまでもなく、信仰の成長(全き愛に生きること)と伝道は一体なのである。信仰の成長は、私たちをしてさらなる伝道へと向かわしめるものである。私たちの教団は今年度から新たに教団標語を掲げる予定である。
「全き愛から更なる宣教へ」という標語が与えられている。全き愛(キリスト者の完全)とは、神に対する全面的信頼(明け渡し)であり、他者への謙った愛と言うことができる。これが備わっていれば必然的に更なる宣教への使命に立つことができるはずである。
 
 ジョン・ウエスレーは「私の拠って立つ根拠は聖書である。然り、わたしはバイブル党だ。私は大きな事、小さな事、すべてにおいて聖書に従う」と、述べている。            
(「信仰日誌」より) 
 彼は「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(コロサイ3:16)の「宿る(dwell)」ということばに注目して興味あることを述べている。すなわち、「聖書の言葉が、腰掛け的にごく短期間留まる(short stay)、あるいはちょこちょこ訪れる、時々思い起こす(occasional visit)、そのいずれでもなく、「内に宿る」とは「常宿(residence)」となること、つまり、聖書の言葉が私たちの内にドカッと根を下ろし、常住して、血肉となり、文字通り「いのちの言葉」として全身に充満するという意味である」と。みことばが胃袋に入ると本当に身につくのである。

  閉塞感と不況の社会は「パンに飢え、水に渇く」飢饉の危機があるが、それにも増して「主の言葉を聞くことの出来ない飢えと渇き」の飢饉の方が危機的である。(アモス書8:11)
だからこそ、「みことばに生きる」ことに励みたいものである。(以下、2/1の礼拝へ続く)

2009/01/11(日) 「そこから出て行きなさい」大嶋博道牧師
新成人祝福礼拝 (聖書)創世記12:1〜4

本日は新成人を祝福する礼拝です。大人社会の仲間入りする皆さんの上に神の豊かな祝福をお祈り致します。
●「私が示す地に行きなさい」(1節)「主の言葉に従って旅立った」(4節)と言うみ言葉が本日与えられたみ言葉の中心です。
 キリスト教は「集められ」そして「散らされて行く」宗教です。キリスト教はまた「出発」の宗教です。すなわち、「始める」と言う事です。ノアは洪水の時に家族と共に箱舟に入り、洪水の後に箱舟から「出て行き」ました。モーセもエジプトで奴隷として不自由な生活をしていましが、主のみ言葉によってエジプトから「脱出」します。

●12章1節で、神はアブラハムに「出て行きなさい(レク・レカー)」と命令されました。彼は神の言葉に従って「行き先を知らないで」(ヘブライ11:8)出発しました。
 皆さんは「そこに留まって」いませんか?主が「行きなさい」と言われた時には出て行く事ができますか?
 私(大嶋)は高校卒業と同時に(本当はアメリカ留学を希望していたのですが)神の招きで「神学校に行くために」福井県の住み慣れた家を「出て行き」ました。
そして神学校を卒業した時にはこれもブラジルに「出て行け」との声を聞いてブラジルに出て行きました。私が28才になった時に神様は私にこの世での働きを命じら
れたので会社勤務をし、管理職にもなる事が出来たのでここに住の地が与えられたのかと思っていると、今度は「開拓伝道に出て行け」と神様は私に命じられました。その声を聞いて37才の時に私はひよどり台で開拓伝道を始めました。私の人生の節目は神の導きにより、「出て行く」ことでした。

●今日のみ言葉から「そこから出て行く」ことの大切さと、それに伴う神の約束を学びましょう。
@「祝福の源になる事」(創世記12:2)〜私たちクリスチャンは神の声を聞いて、信仰によって出て行く事が大切です。その事があなたの福音の源なのです。「祝福」とは未来に向かって流れて行く命の力なのです。

A「共にいる事」(マタイ28:20)〜神様は私たちの出発と共におられ、旅の途中におられ、目的地に着くまで共におられます。喜びの時も、悲しみの時も神様が共にいてくださると言う信仰を持ちたいものです。

B「実を結ぶ」(ヨハネ15:16)〜クリスチャンの生涯は必ず実を結びます。生涯が祝福されて大きな実を結ぶと言う信仰を持つ事が大切です。

 まとめ:           
 ある人からメールを受信しました。彼は「神様はあらゆる出来事を用いて、すべてを最善(益)に変えて下さる」と語っていました。信仰をもって出て行く時に、神様は豊かに祝福して下さるのです。

2009/01/04(日) 「開け!荒れ野に無地が湧く」大嶋博道
新年礼拝(聖書)イザヤ35:1〜10

皆様、明けましておめでとうございます。
今年、初めての聖日礼拝をこのようにして皆様と共に守る事が出来ますことを心より感謝します。今年もみ言葉に聴き続けましょう。
序 論:
 さて、今日のみ言葉の中心は35章6〜7節です。今年1年が「荒野に水が湧き、荒野に水が流れる」ような年でありますようにと願います。そしてまた、この1年、不平不満を言ったり、人を裁くような言葉を口にする事が無いようにと願います。
 
  荒れ野の社会の中で
 私たちが生活している今のこの時代は荒野のような厳しい時代です。(政治・社会・教育現場の混乱、長期景気低迷、道徳・倫理の退廃、ストレスやプレッシャーの中で心のゆとりが消え、先行き不透明の閉塞感が蔓延している) 

「回復(再生)」の預言
 そんな時代に生きるわたしたちに回復の希望を与えて下さっているのが5章のみ言葉です。35章には「栄光の回復」と言う見出しがついていますが、捕囚で一度は廃墟と化したエルサレム、滅びた国がいずれ回復すると言う事を預言したみ言葉です。そしてこの預言は歴史的には現実のものとなりました。荒野の状態のような今の時代にも何れ水が湧き、川が流れると言う神様の奇跡に期待しましょう。

本 論:
 荒れ野に水が湧く理由
 まず、何よりも私たち自身が荒れ野状態に置かれていることを再確認しておきましょう。そのような荒れ野に水が湧いたり、川が流れるのはなぜでしょうか?

@荒野は試練の場所です。そしてその荒野は神様との出会いがあると言う決定的な場所なのです。そう言う意味で荒野には水が湧き、水が流れる場所なのです。(ヤコブもモーセも荒れ野で神に出会っている)

A荒野は神のご臨在が鮮やかに示される場所です。神様が共におられる場所だから水が湧き、水が流れる場所なのです。(神は荒れ野の40年の旅の間、「昼は雲の柱・夜は火の柱」として臨在を示された)

Bそしてその荒野にはマナが降る場所なのです。(荒れ野の40年間、毎朝、マナが降り、民は支えられた。)だから水が湧き、水が流れる場所となるのです。

 まとめ:
私たちに回復が必要だと言う事は、私たちのどこかに傷があると言う事です。その傷が癒され、回復されると言うのが35章の預言なのです。荒野こそが神様が出会ってくださる場所なのです。私たちが荒野にいる間、神様は私たちと共にいて下さるのです。守ってくださり、そして神様のご栄光が鮮やかに現される場所なのです。


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