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2009/01/18(日)
「みことばに生かされて」大嶋博道牧師
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教会標語を学ぶ礼拝にて(聖書)コリント二 10:12〜17 序 論: 今年は標記のように「みことばに生かされて」という教会標語を与えられた。この標語を示された理由は幾つかある。 その一つは、「みことばに生かされる」ことはクリスチャンの信仰生活の基本であり、まさに「基軸」だからである。クリスチャンは「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳(神のみことば)を慕い求める存在である。 二つめは、信徒の信仰の成長を願うからである。依然として閉塞感と不況が日本の社会を覆っている。「閉塞感」とは出口(将来)が塞がれていて見通しが立たないことを意味する。それは、教会の中にも入り込んで来ている。教職や信徒の高齢化、次代の教会の働きを担う献身者の不足、青少年や子どもたちの減少、そして何よりもクリスチャン(信徒)の「霊性」の低下である。 現代の複雑な社会状況の中で、社会人として精一杯生きながら、同時に神のみ旨に沿って、みことばに従って神が求める「聖なる生活」をするということがどういうことなのか、またどう行動すべきなのか、それは信徒が信仰生活の中で自ら模索し、答えを見出していかなければならないことである。だからこそ 「みことばに生かされる」ことの 意味は大きいのである。 三つ目は、伝道への使命に燃えて歩みたいからである。言うまでもなく、信仰の成長(全き愛に生きること)と伝道は一体なのである。信仰の成長は、私たちをしてさらなる伝道へと向かわしめるものである。私たちの教団は今年度から新たに教団標語を掲げる予定である。 「全き愛から更なる宣教へ」という標語が与えられている。全き愛(キリスト者の完全)とは、神に対する全面的信頼(明け渡し)であり、他者への謙った愛と言うことができる。これが備わっていれば必然的に更なる宣教への使命に立つことができるはずである。 ジョン・ウエスレーは「私の拠って立つ根拠は聖書である。然り、わたしはバイブル党だ。私は大きな事、小さな事、すべてにおいて聖書に従う」と、述べている。 (「信仰日誌」より) 彼は「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(コロサイ3:16)の「宿る(dwell)」ということばに注目して興味あることを述べている。すなわち、「聖書の言葉が、腰掛け的にごく短期間留まる(short stay)、あるいはちょこちょこ訪れる、時々思い起こす(occasional visit)、そのいずれでもなく、「内に宿る」とは「常宿(residence)」となること、つまり、聖書の言葉が私たちの内にドカッと根を下ろし、常住して、血肉となり、文字通り「いのちの言葉」として全身に充満するという意味である」と。みことばが胃袋に入ると本当に身につくのである。 閉塞感と不況の社会は「パンに飢え、水に渇く」飢饉の危機があるが、それにも増して「主の言葉を聞くことの出来ない飢えと渇き」の飢饉の方が危機的である。(アモス書8:11) だからこそ、「みことばに生きる」ことに励みたいものである。(以下、2/1の礼拝へ続く)
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