ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2009年10月
前の月 次の月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

直接移動: 20163 月  20153 1 月  201412 11 10 9 8 7 月  20139 8 6 5 4 3 2 1 月  201212 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201112 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201012 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200912 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200512 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200412 11 10 9 8 7 6 5 4 月 

2009/10/25(日) 「危機の真っ直中に生きる私」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝 (聖書)マタイ14:22〜33

序 論:
今日のテキストから二つのことを学びたいと思います。
(1)私たちの人生においては、思いがけない逆風のために「波に悩まされることが度々ある。
(2)その中でも、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と手を差し伸べ、励ましてくださる愛の神、主イエス・キリストが確かにおられる。
 
 9月末に北海道で行われた日本伝道会議のテーマは「危機の時代における宣教協力」であった。「危機」とは何か。まず、地球規模、世界規模で考えると、温暖化、資源不足、食料不足、また、戦争、テロ、迫害、そして価値観の違いによる人々の不一致、また記憶にも新しい世界金融危機。こういった問題が世界に暗雲をもたらし、危機を増長している。
先日フィリピンで行われたビショップ会議で、アフリカのビショップは、「私たちの国には内戦やテロのために平和がない。貧困・飢餓、さらにエイズが蔓延している」と訴えていた。これは私たち日本人が日常に感じる危機とは随分異なっている。危機とは、一人一人、その置かれた環境によって異なる。いずれにしても、危機とは私たち一人一人の生活を妨げるとてつもない「波」なのである。

本 論:
(1)24節にあるように私たちの人生は、逆風による波に悩まされることがある。こぎ悩むことがしばしばある。クリスチャンには逆風は吹かず、漕ぎ悩むことはない、というようなことはない。信仰生活においても逆風に悩まされ、波によって前進を妨げられることもある。ヨブの体験で分かるように、私たちは幸いと共に不幸をも頂いているのである。ヨハネ16:33には「あなたがたはこの世では苦難がある」と、またマタイ6章では「思い悩むな」と何度も主イエスは言われる。
聖書は私たちの人生の中に、苦難が生じることを言及している。そのことを受け止めることから始めよう。

(2)そのような中にある私たちに手を差し伸べ、「大丈夫、安心しなさい」と、声をかけてくださる方がおられる。(29節参照)ペトロは、湖上でイエスに出会った時、そこに歩いて行けるよう願った。そして「来なさい」と言われたイエス様のところへ歩み始めた時、風に気付いて(ギリシア語のβρεπω(ブレポー)は「気付く」という意味もあるが、「見る」が適切だろう)沈みかけた。イエスはペトロに手を差し伸べて助けられた。
 私たちの生活の中で、逆風の時、問題に直面する時、信仰が力強く私たちを支えてくれる。

「信仰とは、逆風の中で対抗していく力である」
Tコリント10:13にあるように、逆風の中でも神は真実な方であると確信するのは信仰の力である。この信仰の力によって、「逆風よ来れ」、「試練よ来れ」と言えるようになりたい。主が
前から、後ろから支えてくださる。逆風の中で、凛として立つ。これが私たちの信仰でありたい。
ヘブライ12:2のみ言葉のように、主から絶対に目を離さないで、波を見ず、風を見ず、主イエスだけを見つめて歩んで行きたい。       

2009/10/18(日) 「静まりの中で」馬場一朗牧師
特別礼拝 〈詩篇)詩編46:11

●聖書のみ言葉は日々新たにいただくものです。神は生きておられるのですから今、私たちに必要なみ言葉をくださいます。神がくださる「マナ」は余分に明日の分まで取って置くと腐って役に立たなくなり必要な時にいただいた「マナ」は私たちを生かしてくださいます。ですから今日は私が最近経験した中でいただいたみ言葉を取り次がせていただきます。

●私は今年の9月19日から29日まで入院しました。その時に大嶋理事長がお見舞いに来てくださり詩編46章2節「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」と言うみ言葉を読んで祈ってまださいました。
その夜に改めて詩編46章全体を吟読した時に「避けどころである主の臨在」と共に口語訳聖書マルコ6章31節「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所に行って、しばらく休むがよい」と言うみ言葉を与えられました。いつも忙しくしていて見舞う事はあっても見舞われる事がなかった私に「主は静まってわたしこそ主であることを知れ」と言われたのです。

●信仰の中で「静まり」とは「聖書のみ言葉を読む、祈る、黙想する」と言う大切な事を意味します。この事を知る事が信仰生活を勝利する秘訣です。静まろうと意識して静まる事は大切ですが、そのように自分で静まる事が出来ない時に神様は私にしてくださったように「静まり」の時を与えてくださるのです。

●列王記上の17章から19章にアハブ王、イゼベル王妃との戦いに明け暮れた物語があります。異教のバアルの神と真の神との戦いの物語です。「カルメル山での戦いと勝利」「イゼベルの脅しと恐れ。逃亡。そして死にたいとの告白」それに対して「洞穴でのあなたはここでなにをしているのかと言う問いかけとエリ
ヤの自己主張」そして「出て、山の上で主の前に立ちなさい」と言う主のご命令のあとに「静かにささやく声が聞こえた」(19章12節)とあります。静まって耳を澄まさなければ聞こえないささやきの声です。静まりの中で、神の細き声を聞くことによって、そしてその声に委ねる事によって信仰生活は勝利します。主に委ねる事ができるかと言うことです。この事〜主に委ねる事が出来るかどうかは結局自分との戦いでもあるのです。

(列王記上17〜19章を詳しく説明してくださいました。理解を深めるためにも是非皆様も今一度お読みくださいますように…)

2009/10/11(日) 「神の大きな喜び」畑中康雄勧士
信徒礼拝 (聖書)ルカ15:1〜7

ルカ15章1〜7節の「見失った羊」のたとえ話は、イエスが罪人を歓迎されたことに対して、聖書学者たちがイエスを批判したのに答えて話されたものです。聖書学者たちは罪人と席を同じくすることは自分を汚す事だと考えていました。それに対してイエスは神はこのような罪人が神のもとに帰ってくることを最もお喜びになる、そのような罪人を神の国へ招くために私は来たのであると説かれたのです。

●この1匹の羊を探し出す為には羊飼いは、残された99匹の事も或いは自分自身の身に降りかかる危険さえも忘れて1匹の羊の事に集中したのです。悲しんだのです。この悲しみこそが神が人に対して持っておられる愛の悲しみにほかならないのです。神は人間をどこまでも愛してくださり、この羊飼いのように人々が神の元に帰ってくるのを大きな愛を以て、危険をも顧みずに追い求めておられるのです。

●私たちは幾度つまずくか分かりませんがしかし、顔を主に向けている限り、何度でも赦してくださり、そしてついにはその恵みと力によって(良い事をしたから神に愛されるのではなくて神
の恵みと力によって聖化されて)
@イエスに喜ばれない事は全部私たちの生活の中から消え去り
A主に立ち返ったその事によって赦され
B主は何にも勝る大きな喜びと祝福を与えてくださるのです。神の絶対的な愛は人間の数字の常識を越える「1は99より大きい」と言う神の愛の真理がここにあるのです。

●私たち一家は幸いにもクリスチャンホームを形成する事が出来ました。父は若い頃にキリスト教を求めていましたが約40年間もの間教会から離れていました。そんな父が私の結婚と言う事を通して再びキリストに捉えられる事になったのです。私の結婚式、そしてその1年後の父の受洗、続く母の受洗はたとえ話の放蕩息子の弟のような生活をしていた父を「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(ルカ15章32節)と喜んで迎えてくださった神の愛がなければ無かった事なのです。
●たとえ今は主を信じていなかったとしても、また暫く教会を離れていたとしても神は貴方が礼拝に出席し、またご家族共々に信仰生活を送られる事を待ち望みそしてその事を大きな喜びとしてくださるのです。この「神の大きな喜び」、「神の大きな愛」に心から感謝します。 

2009/10/04(日) 「愛を行うために」熊谷直也神学生
総員礼拝・聖餐式 (聖書)ルカ7:36〜50

本日のテーマは「愛を行うために、何が必要なのか」、言い換えれば、私たちは何をもって、愛を行うことができるのかということです。
 結論から申しますと、「私たちが神の前に罪人であることを自覚する(気づく)こと」であります。今日は、二人の人物から、その姿を通して学びたいと思います。一人はファリサイ派の人、もう一人は罪深い女です。

 「罪深い女」―彼女は、ファリサイ派のシモンの家に入り、イエスの足もとに来て、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して高価な香油を塗りました。
 ファリサイ派シモン―彼はイエスを食事に招待しましたが、イエスの足を洗うでもなく、そんなに好意を示さなかったのです。 彼は罪の女がイエスに示した愛の好意を見て、心の中で憤ったのです。その時、イエスは一つの例えを語って、この男に大切な真理を教えられました。それは、500デナリオンの負債を帳消しにしてもらった人と50デナリオンを帳消しにしてもらった人とどちらが多く金貸しを愛するかということでした。答えは明白、多くゆるされた人の方です。
 この話の結論は、47節、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
 私たちが心に留めておくことは、神の前において「罪」には大小も優劣もありません宗教的指導者であるファリサイ人のシモンも罪深いこの女性も同じ罪人なのです。

 では、このファリサイ派の人と罪深い女の二人の違いはなんだったのでしょうか。
それは、自らの罪の認識です。自分が罪深いものであると、日々そう感じながら生きてきたこの女性にとっては、「罪」赦されることは、この上ないとても大きな喜びだったのです。自分の義を誇っていたファリサイ人シモンに比べてこの女性は、町の人からも、罪人として避けられて、罵倒されることもあったのでしょう。その赦されたという大きな喜びが、高価な香油をイエス様の足に塗るという行動になって現れたのです。わたしたちが人を愛するということ、また愛のある行いをするとうことは、罪赦された喜びと感謝からくるものです。私たちは、罪赦された喜びを日々感じているでしょうか。私たちの罪はイエス・キリストの十字架上の贖いという貴い代価によって赦され、神の子とされ、今、永遠のいのちに生きる者とされたのです。
 「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:47)

 「イエスはわたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(1ヨハネ3:16) 日々、自らの罪が赦されたという主への深い感謝をもって歩んで行きたいと願わされています。


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.