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2009/10/04(日)
「愛を行うために」熊谷直也神学生
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総員礼拝・聖餐式 (聖書)ルカ7:36〜50 本日のテーマは「愛を行うために、何が必要なのか」、言い換えれば、私たちは何をもって、愛を行うことができるのかということです。 結論から申しますと、「私たちが神の前に罪人であることを自覚する(気づく)こと」であります。今日は、二人の人物から、その姿を通して学びたいと思います。一人はファリサイ派の人、もう一人は罪深い女です。
「罪深い女」―彼女は、ファリサイ派のシモンの家に入り、イエスの足もとに来て、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して高価な香油を塗りました。 ファリサイ派シモン―彼はイエスを食事に招待しましたが、イエスの足を洗うでもなく、そんなに好意を示さなかったのです。 彼は罪の女がイエスに示した愛の好意を見て、心の中で憤ったのです。その時、イエスは一つの例えを語って、この男に大切な真理を教えられました。それは、500デナリオンの負債を帳消しにしてもらった人と50デナリオンを帳消しにしてもらった人とどちらが多く金貸しを愛するかということでした。答えは明白、多くゆるされた人の方です。 この話の結論は、47節、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」 私たちが心に留めておくことは、神の前において「罪」には大小も優劣もありません宗教的指導者であるファリサイ人のシモンも罪深いこの女性も同じ罪人なのです。
では、このファリサイ派の人と罪深い女の二人の違いはなんだったのでしょうか。 それは、自らの罪の認識です。自分が罪深いものであると、日々そう感じながら生きてきたこの女性にとっては、「罪」赦されることは、この上ないとても大きな喜びだったのです。自分の義を誇っていたファリサイ人シモンに比べてこの女性は、町の人からも、罪人として避けられて、罵倒されることもあったのでしょう。その赦されたという大きな喜びが、高価な香油をイエス様の足に塗るという行動になって現れたのです。わたしたちが人を愛するということ、また愛のある行いをするとうことは、罪赦された喜びと感謝からくるものです。私たちは、罪赦された喜びを日々感じているでしょうか。私たちの罪はイエス・キリストの十字架上の贖いという貴い代価によって赦され、神の子とされ、今、永遠のいのちに生きる者とされたのです。 「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:47)
「イエスはわたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(1ヨハネ3:16) 日々、自らの罪が赦されたという主への深い感謝をもって歩んで行きたいと願わされています。
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