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2009/11/01(日) 「再び、死を背負って生きる』大嶋博道牧師
召天者合同記念礼拝 〈聖書)コリント第二4:7〜15

序 論:
ある修道院の壁に、“メメント・モリ”という言葉がラテン語で記されている。これは「死を覚えよ」という意味である。また、ある詩人は、「人は死に向かって生きている」と詠んだ。
 詩編90:9、10に、「わたしたちの…人生はため息のように消えうせます。…瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」と書かれ、イザヤ40:68に、「…肉なる者は皆、草に等しい。…草は枯れ、花はしぼむ。…」さらに、詩編103:15、16に、「人の生涯は草のよう、…風がその上に吹けば、消えうせ…」と記されており、聖書は人間は脆く、傷つき
やすく、はかない存在(有限な存在)であることをこのように例えている。
 私たちは生の延長線上に死があると感じがちである。しかし、柏木先生は死にゆく人を看取る経験を通して、「人は死を背負って生きている」と言った。生と死は紙の表裏のようである。

本 論: 
では、死を背負っている私たちはどう生きるべきだろうか
1.死を背負っている人間として互いに支えあう。
 フィリピ2:15をとおして、イエス・キリストの謙遜さを手本とし、へりくだって相手に仕えることの大切さが語られている。この生き方こそ死を背負って生きる者のあるべき姿である。

2.神に生かされている存在であることを知る。
 ローマ11:18に、私たちは私たちが生きているのではなく、神によって生かされていること、ヤコブ4:1315にあるように、私たちは、主の御心ならば、生きながらえて計画を立て、行うことができるのである。神によって生かされていることを知るならば、先のことに思い悩む必要はなくなる。

3.感謝と楽観主義のうちに生きる。
 Tテサロニケ5:1618にあるように、いつも喜び、絶えず祈り、なにごとにも感謝する。これは幸せの源である。楽観主義とは、「大丈夫だ」と思うこと。この大丈夫という言葉は、人を慰め、安心させる。大丈夫と思う根拠は信仰にある。

まとめ:
イザヤ46:4をとおして、主は私たちを背負っておられる、私たちの全生涯を根底から担っておられる、死を背負って生きる私たちを支えておられることを知りたいものである。
 土の器は傷つきやすく、とてももろい。この器の中に、宝、すなわち、主イエス・キリストが住まわれており、共に生きてくださっているのである。だから、私たちは死を背負って生きながら、復活の主の命をいただいで永遠の中で生きる
ことが出来るのである。


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