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2009/11/15(日)
「明日の教会、明日の私たち」大嶋博道牧師
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宣教150周年記念礼拝 (聖書)ルカ5:1〜6 プロテスタント日本宣教開始150周年を、私たちの教会で記念することが出来て心から感謝致します。 「ありがとう150年、つなごう200年へ」をモットーにして、今日からさらに深みに漕ぎ出したいと思います。 序 論: 今日の結論は5:4の主がペトロに語られた「沖に漕ぎ出して、網を降ろし、漁をしなさい。」にあります。ここにスポットを当てます。 150年前という時代は、日本は鎖国をしていた。1859年に、主としてアメリカからリギンズやヘボンやブラウンなどの宣教師たちが日本に福音を伝える為に来日し、言葉や習慣、さらに「キリシタン禁令」の中、迫害を乗り越えて福音を語り伝えたのである。また、彼らは教育や医療などにも貢献した。 今、日本には、約8千の教会、約55万人の信徒、そして、2万人の牧師や伝道者が与えられている。150年前は何もなく、150年後の今、これだけの教会や働き人や信徒が起こされたのは、神の憐れみであり、大きな祝福であろう。しかし、主のみ前に悔い改めなければならないことも多くあろうかと思う。ここに留まらず、次の時代への飛躍のために、先を見つめ、先に進みたいものである。
本 論: 主はペトロに、「沖に漕ぎ出して」と言われた。この「沖」とは、ギリシア語で「バソス」と言い、元々は「深み」という意味である。ラテン語では、「深いところに」と訳されている。沖、深みとは、単なる距離や水の深さを意味しているのではなく、「物事の深みや核心」への奥深さを暗示し、人が未踏、未知 の世界、つまり神秘の世界が醸し出す奥深さに向かって歩み行くというニュアンスも込められている。 主イエスはペトロに単に場所の移動を命じたのではなく「人間の既に得た体験と憶測をはるかに超えた神の支配する領域、神秘の世界、救いの出来事の世界へと向かって歩み出すこと」を命じたのである。
ペトロは主イエスに二つの応答が出来た。一つは、漁師のプロとして長年の経験から、沖へ漕ぎ出して漁をするのは非常識で、従えないという応答。もう一つは、にもかかわらず、主に信頼して従うという応答。ペトロは「私たちは、夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから網を降 ろして見ましょう。」と答えた。「しかし」とは、主に対する期待と信頼が込められている。結果どうなったかは言うまでもない。大漁を味わったのである。
まとめ: 150年という節目において、今日から祈りの深みに、み言葉への傾聴の深みに、礼拝者として喜びの礼拝と奉仕と献身の深みに漕ぎ出したい思います。沖に漕ぎ出さねば、主の祝福はない。しかし、信仰によって沖へ漕ぎ出すならば、理性を超える、人知を超える、主の大いなる祝福が私たちを待っているのである。明日の教会を築くために、明日に向かって漕ぎ出そうではないか。
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