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最新の絵日記ダイジェスト
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2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2009/12/27(日) 「今年も背負われて」大嶋博道牧師
年末感謝礼拝 (聖書)申命記1:29〜33
序 論:
 今年1年は皆様にとってどんな年であったでしょうか。私自身は様々な場面で、「判断を迫られる年」でした。さて、神様は「インマヌエル−共にいてくださる方」「審判をされる方」「愛の方」「背負ってくださる方」等々といろいろな表現が出来ると思います。
 イザヤ書46章4節によると「担い、背負い、救い出す」とあります。また同じくイザヤ書63章9節には「彼らを負い、彼らを担ってくださった」とあります。そして今日の御言葉の申命記1章31節には「主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た」とあります。この事から旧約聖書における神様の姿は、「私たちを背負い、持ち運んで下さる方」であると言えます。
特にイスラエルの民は荒れ野の40年間に、飲み水やマナをもって養われ、紅海の奇跡、神と民との契約である「十戒」を与えられることなどをとおして、まさに父が子を背負うように、神に背負われて長旅をしました。
本 論:
 では、「背負う」というのは具体的にはどういうことでしょうか。今日のみ言葉から次の3つの事を学びます。
@神様は「共におられ、共に歩まれるお方」であると言う事がその第1の事です。すなわち、神は「臨在の方」と言う事です。(「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」とのみ言葉
(出33:14)や「わたしはあなたと共にいる」(イザヤ41:10)のとおりです。

A神様は「生活に必要なものを備えてくださるお方」であると言う事がその第2の事です。すなわち、神は「配慮してくださる方」と言う事です。(「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたのことを心にかけていてくださるからです」(Tペテロ5:7)や「主の山に、備えあり」(創世記22:14)のとおり。もしあなたが求めているものが満たされないとしたらそれは神の目から見て今、あなたに必要がないからでしょう。引き続き必要なものを求めてください。そして祈り方、求め方を変えてみてください。

B神様は「未来を導かれるお方」であると言う事がその第3の事です。すなわち、神は「希望の方」であると言う事です。(「あなたのみ言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105)わたしの長い人生全体を照らす光であり、日常生活の身近な足元を照らす灯火です。このお方に将来への希望を抱いて信仰生活に励みたいと思います。
最後に「Foot Prints(足跡)」という詩を読んで終わります。
神様は、私たちが試練の中で最も苦しみもがいているときに、しっかりと背負って歩いて下さるお方なのです。ですから、浜辺の砂に神と私の2人の足跡ではなく、ただ神の足跡しかなかったのです。今年も背負われて一年を過ごしたことを感謝しましょう。

2009/12/20(日) 「飼い葉桶がクリスマス」大嶋博道牧師
クリスマス礼拝 (聖書)ルカ2:8〜21
序論: 
 クリスマスは神の独り子イエス様が今から2000年程前に生まれたことを喜び祝う日である。
生まれ寝かされた場所は、飼い葉桶であった。(12節参照)それは、牛や馬のエサ箱で、汚く危険な場所であることがわかる。飼い葉桶のこの出来事に一体何の意味があるのだろうか。飼い葉桶には、エサの牧草や干し草、わらやぶどう酒の搾りかすが入れられている。そこは、汚れており臭いもあったろう。そのイメージは、暗闇、弱さ、貧しさである。

 D.ボンヘッファーは「飼い葉桶に目を向けよ。ここにあなた方の罪が赦され、救いや喜びや希望がある」と言った。またある牧師は、飼い葉桶は、経済的貧しさ、社会的低さ、守るものがない無防備さがあると言った。イエスは宮殿ではなく、薄暗く、汚く、貧しい家畜小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かされた。ここに救いの根源がある。

本論:
 なぜこのような場に誕生されたのか。結論は、罪と悪にまみれてかすかに息をしているような存在の私たちを救うためである。旧約聖書では、人は草であると言及する。イスラエルは1日中、日が照りつける。1日経てば、花は枯れ、炉に投げ入れられ焼かれてしまう。人はそのような存在だと言及する。乳飲み子イエスが寝かされた飼い葉桶、それは、弱く、汚く、脆い、私そのものであることを自覚しよう。

では12節の「しるし」とは一体なんだろう。
1.最も貧しく弱い人に神の救いは届く
2.この飼い葉桶にこそ真実の喜び、感謝がある―信仰とは受け皿であり、神から与えられる恵み、その喜びはその皿を溢れさせるばかりの大いなるものである。
3.ここにこそ、新しい希望に満ちた人生がある―20節、家畜小屋の飼い葉桶の主に出会った羊飼いたちは神をあがめ、讃美しながら帰って行った。帰る場所は、以前と同じ、野原の羊の場所であろう。しかし、彼らの内面は大きく変えられたのである。学者たちも同様であった。

「愛の園」では、病院で余命3日ほどと言われた方が、愛の園に戻り、皆に歓迎され、喜びに満たされ、何日も元気に生き続けておられる。私たちの心を生かすもの、私たちの心を喜びで満ち溢れさすもの、それは「私は飼い葉桶、弱くて貧しい罪深い者、そのような私に主は宿って下さった、という信仰である。クリスマスおめでとう!

2009/12/13(日) 「十字架の叫びがクリスマス」大嶋博道牧師
アドベント(3)礼拝 (聖書)マルコ15:33〜41
序 論:
今年のアドベント礼拝では一貫してクリスマスを実現に至らせたものが何なのかを強調して学んでいます。今日はマルコ15章33〜41節を通して更にこの事を学びます。それは、「主イエスの十字架の叫び」であります。2000年前、主イエスは私たちの罪を背負って十字架に架かり、最後に「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わたしの神、わたしの神、どうしてわたしを断絶されたのですか)」と断末魔の叫び声をあげられました。

この叫びは、2000年を経た現代に生きる私たちの叫びでもあります。主イエスは私たちに代わって神に対して悲痛な叫び声を発せられたのです。そして、「この叫び声」こそクリスマスをもたらす大きな原因になったのです。つまり、主イエスは神の子でありながら、あえて人間の姿になられ、仕える僕として私たちの罪を全部引き受けて下さり十字架に架かって贖いの死を成し遂げて下さったのです。十字架の贖いの死を遂げるために誕生されたイエス・キリスト、つまり、救い主イエスの誕生は十字架の叫びのためであったと言えます。

いったい、クリスマスは世間一般が思っているような楽しいものなのでしょうか。神の独り子が33年後に十字架に架かられ「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれるスタートラインの
日がクリスマスなのです。人間には神にしか埋められない空洞があります。その空洞に主イエスの十字架が立っており、その空洞を唯一埋めることができるお方なのです。

本 論:
主イエスの叫びには次の2つの意味があります。
@人間は生まれながらにして罪深い存在であるということ。人は罪ゆえに神の栄光を受けられなくなっており(ロマ3:24)自分の望む事を実行せずにかえって憎んでいる事をする(ロマ7:15)のが人間存在の姿です。この罪ゆえの「死のからだ」が救われるためにはどうすれば良いのか。それは私たちの罪のために十字架上で断末魔の叫び声をあげられた主イエスを信じる事です。聖書のみ言葉を通してキリストを受け入れる時に私たちは変わるのです。

A十字架上の叫びは人間を救おうとされる神様の「究極の愛」の現れだと言うこと。(ヨハネ3:16参照)クリスマスは神がこの世界に冒険をされた日です。リスク(危険・犠牲・損)を顧みないで、神ご自身が独り子イエスを遣わして下さった喜びの日です。ここに真の愛が存在するのです。そして、ここにクリスマスがあるのです。十字架の叫びのあるところに、人類の救いがあり真のクリスマスが存在しているのです。主に心から感謝し、信頼して行きましょう。   

2009/12/06(日) 「独り子をお与えになったほどに」畑中康雄勧士
アドベント(U)礼拝 ヨハネ3:16〜17

●今日のみ言葉は「小福音書」と言われ、救いの源は神であり、「神は愛である」と言う事がこのみ言葉に凝縮されています。
 キリスト教は「愛の宗教」です。「愛」とは「他の人の為に自分の命を犠牲にする事」「敵を赦し、隣人を自分の様に愛する事」に尽きると言えます。その愛の業のご計画の中心が「独り子イエスの誕生」であり、「十字架上の死による罪の贖い」です。
イエスの誕生は罪人となってしまった人間の救いのためでした。独り子イエスは世を裁くために来られたのではなくて、神を信じる者が1人も滅びる事が無く救われるために来られたのです。

●では、何故1人の人によって、全ての人が救われるのでしょうか?それは1人の人によって罪が全ての人に入ったからです。創世記3章に人間が罪人となった経過が書かれています。人類の罪はアダムと言う1人の人を通して入りました。1人の人が神に背く事によって全人類に罪が入ったのです。この事を理解しないではイエスの聖誕と十字架による罪の贖いによって全人類が救われると言う神のご計画を理解する事は出来ません。それは、ローマ5章18節に「そこで、1人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、1人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」とある通りです。

●罪ある身となっている私たちはどの様にしたら救われる事が出来るのでしょうか。
ロ−マ3章23節に人が義とされる秘訣が明らかに示されています。それは「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いを通して、神の恵みにより無償で義とされる。」とある通りキリスト・イエスの贖いにあずかる事です。
人は罪ゆえに神との正しい関係が持てなくなっていますが、キリストが私たちの罪を負って十字架に架かってくださった事を信じて神に従って行く事を告白する者には神と人との交わりが可能になります。
具体的には@礼拝を守りA聖書を学びB祈りをなしC聖礼典(洗礼式と聖餐式)を通して神の祝福にあずかる事により私たちは罪から解放されるのです。


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