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2009/02/22(日) 「出エジプトからカナンの地へ」西脇衛士勧士
F.サンデー信徒礼拝 出エジプト13:1〜10
(序 論)
 今日のテキストとなる出エジプト記はイスラエル人の心の根底にこの出エジプトがあり、この出来事を子孫に伝えることを繰り返し記しています。また聖書の思想の根底にこの出来事が大きく影響しています。奴隷生活から解放され、父祖アブラハムに約束されたカナンの地に入る事が出来たのは、神の一方的な憐れみの故であることを心に刻みつける必要があったのです。
 今日、私達の信仰生活を振り返り、どこから始まり、どこへ向かっているのかを忘れることなく心に刻みながら、出エジプトの出来事を通して考えてみましょう。
今日のテキストとなる出エジプト記に書かれた「エジプトからカナンの地へ」向かうイスラエルの生活は、私達の信仰生活をよく現わしています。

(本 論)
 出エジプトと私達の信仰生活を対照しながら学んでみましょう。
@1章から15章  エジプトでの奴隷生活・・・信仰を持たない罪の奴隷生活
A16章から18章 紅海を渡り、エジプト脱出から荒野の生活・・・洗礼を受けてからの信仰生活の戦い
B19章から24章 律法(十戒)の賦与・・・信仰基準としての聖書が与えられる
C25章から40章 幕屋の建設・・・教会を通して神を礼拝する者となる。
  神はイスラエルの民を神の宝とし、祭司の国民とし、聖なる者とし神を礼拝する者とするために奴隷(罪)から救い出して下さったのです(出エジプト19:5・6)

 私はクリスチャンホームに育ちましたが、ある時期から教会に行かず、自分中心の生活に陥っていました。洗礼は受けましたが、イスラエルの民と同じく不平不満があり、喜びや平安があったわけではありません。聖書は持っていましたが読むことも無く、守れずはずもありません。そのような中で教会生活、教会学校活動、青年会活動などを通して語る自分と生活のギャップにも悩みました。
しかし、神様はこんな私をも見捨てず、色々な集会において取り扱って下さり救いの確信と、神を愛する信仰に導いて下さいました。 そして、家庭の一室におけるデイボーションの中で聖霊様がわたしの内に住んで下さり、わたしを生かし、(カナンの地へ)導いて下さるという信仰が与えられました。
イスラエルの民(二代目)も神様の憐れみと約束によりカナンに入ることが出来ました。が戦いが終わったわけではありません。モーセが死んだ後、神樣はヨシュアになお取るべき地が残っているといわれます。

(結論)
私達の信仰生活もこの世にある限り信仰の戦いが終わったわけではありません。いや、信仰を持ったが故に、尚、激しい戦いがあり、取るべき地があると主はいわれます。それは聖霊のバプテスマを頂き、聖なる者、汚れのない者、全き愛の人に変えられていく領域です。 「我キリストと偕に十字架につけられたり、最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」ガラテヤ2:20(文語) 「出エジプトからカナンの地へ」神様の約束のことばを信じて、信仰生活をはじめた記念の時を忘れず一歩一歩進んでいきましょう。                     

2009/02/15(日) 「教会―聖なる一つの家族として」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)コリント一12:12〜31

〔定期教会総会の礼拝〕
序 論:
 今日は、午後に教会総会を持ちますので「教会」について学びます。
まず、教会の語源ですが、ヘブル語の「カハール」は神に選ばれたイスラエルの「共同体」とか「会衆」を意味し、ギリシャ語の「エクレシア」は召し出された者の集まり、集会を意味します。いわゆる目に見える建物としての「教会堂」を意味しません。
 パウロによれば、教会とはキリストの体なる教会を意味し、その頭(かしら)はキリストであり、私たちはその肢体(メロス)であり、体を構成する「部分」であります。
教会の使命はまず主を讃美するために礼拝者として集められること、そして、この世に派遣されることであります。
 キリストの体である肢体の部分を構成している私たち1人1人はエペソ4章16節によると「補い合い」「しっかりと組み合わせられて一つになり」「分に応じて働き」「成長していく」事が
期待されています。それぞれに異なる部分が共に協力して成長していく存在なのです。

本 論:
今日の聖書のみ言葉から次の事を学びます。
@体は一つではなくて、多くの部分から成り立っていると言う事が第1のことです。神の肢体は1人1人異なった賜物を持っており、その違いを認め合い、それぞれが役割を持っており、弱く見える部分がかえって必要であると言う事、そして共に喜び共に悲しむ存在なのです。

A神様はそれぞれに固有の使命を与えておられると言うのが第二のことです。パウロの時代の教会には使徒、預言者、教師などの役割がありました。今日の教会にも牧師・役員・教会学校の教師、音楽担当などの役割があり、それぞれが賜物に応じた働きと使命が与えられております。また、全ての信徒が礼拝者となり、献身のしるしとして献金や伝道の働きの使命があります。私たちは主が用いてくださる時にそれに応答していかねばなりません。

B「謙った愛」こそ教会の成長に不可欠なものとのが第三のことです。「教会」に不可欠なものは「愛」です。愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢せず高ぶりません。…そしてすべてを望み、すべてに耐え、愛は決して滅びません。(Tコリント13章4〜8)この「愛の帯」で束ねられたもの、一体となったものが教会なのです。その愛はへりくだった愛でなければなりません。
謙った愛で束ねられ、一体となったところに「聖なる神の信仰の共同体〜聖なる一つの家族」としての教会が生まれます。

まとめ:
大切なことは集め、派遣する主体は、「神は置かれた(God has arranged)」とあり、「神はお立てになった(God has appointed)」とあるように、神ご自身であること。このことをしっかり心に刻みながら、聖なる神の家族として健全に成長したいものであります。祝福をお祈り致します。

2009/02/08(日) 「キリストの心を心とせよ」大嶋博道
聖日礼拝 (聖書)フィリピ2:1〜11
序 論:
フィリピの教会について
 パウロの第二回目の伝道旅行で、マケドニア(ギリシャ)の人々の叫びを聴いて急きょ訪れて、紫布の商人のルデアなどを中心にして短期間で建て上げた教会である。
 フィリピの信徒への手紙は、パウロが後に獄に捕らわれの身となっている時に、信徒たちに書き送った手紙である。パウロは信徒たちに「福音にふさわしい生き方」を勧めている。(1:27)その具体的な生き方というのが2章以下に記されている。いわゆる「キリストの謙卑と高挙」である。

@同じ思いになれ。同じ愛を抱いて、心を合わせ、思いを一つにせよ。
A謙って、互いに相手を自分より優れた物とせよ。
B他人のことにも注意を払え。
今朝、注目したいのは2:5である。一番分かりやすいのは文語訳と思われる。「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」(文語)
「心」とは最も大切なもの、中心そのものである。5節はキリスト・イエスの中に見ることの出来る最も大切なものを自分のものとしなさいと言うこと。その具体的な意味は以下のとおりである。

@神の身分でありながらそれに固守しなかった。
A自分を無にして、しもべの姿になられた。
B謙って、死に至るまで、十字架の死に至るまで従順であった。

本 論:
 では、キリスト・イエスの心を心とする信仰生活とはどのようなものなのか?
(1)日々、礼拝者として生きる (ローマ8:28)
日々、祭壇を築くこと。時を聖別して神の前にひざまづく。(礼拝)

(2)全き愛に生きる (ヨハネ一1:5/4:18)
「全き愛」はジョン・ウエスレーが強調したもので、キリスト者の完全と言われるもの。
すなわち、気質、言葉、行動を支配する謙虚な、優しい、忍耐強い神と隣人への愛のこと。謙った愛こそが、キリストの心を心とする生き方である。

(3)キリストを語って生きる。(コロサイ1:28/使徒11:26)
「クリスチャン」とは寝ても覚めても(四六時中)「イエス・キリストを語る」者である。アンティオキアでイエス・キリストを信じる者たちが「クリスチャン」とあだ名された。それは日々、イエス・キリストを語った(伝えた)からである。私たちも、生涯をとおして「イエスは主である」と唱え続けたものである。

まとめ:
 キリスト・イエスの心を心とする生き方は必ず祝福される。信仰生活は豊かに成長する。私たちも日々、キリストの心を知って、その実現に向かって努力したい。

2009/02/01(日) 「みことばに生かされて」(後半) 大嶋博道牧師
総員礼拝 (聖書)コロサイ3:12〜17

はじめに:
今日は今年の教会標語、「みことばに生かされて」(後半)を学んでいきます。プロテスタント日本宣教150年の節目を迎えた今年は、日本人である自分がどのようにクリスチャンになり、現在どのような信仰生活をしているかという反省から始まらなくてはいけないのです。50年ほど前に、日本のキリスト教徒が少ない原因を、ある神学者は日本人の一般的心性、社会的原因、歴史的原因の3つを挙げていましたが、宣教150年目を迎えた今も本質的には変化していないように感じられます。今年はこの「みことばに生かされて」という標語とともに反省から始めていきましょう。

本 論:
 みことばに生かされるとは?
ではこのみことばに生かされるとはいったいどういうことなのでしょうか。詩篇119:50には「まことに、みことばは私を生かします」という詩人の告白があります。神のことばである聖書は、私たちを根底から生かす原動力なのです。
 みことばに生かされるとは、みことばに生きる動機を与えられ、方向を示され、目的が与えられることです。また、みことばが人生の重要な節目を支え、導くことになります。誕生、入学、卒業、就職、結婚、出産、転職、退職、転宅、定年、もしくは大病や事故や災害などで感じる喜びも悲しみも、すべてを神の御手に委ねて慰めと平安と希望が与えられることになるのです。
このように、みことばに生かされることを実現させるために「信仰の成長」を求めていきましょう。
 キリストが私たちの信仰の最終目的です。そのために、聖日ごとの礼拝、日々のデボーションを優先し、謙った愛と奉仕、そして伝道の実践を心がけていきましょう。

みことばに生かされる「実」とは?
みことばに生かされることを願い求めるクリスチャンに与えられる実とは「祝福」です。何よりもその人の生涯が祝福されるのです。キリスト教は決してご利益を強調する宗教ではありません。
しかし、豊かな祝福を約束する宗教なのです。(ヨハネ15:5)神の「最善」がその人の生涯にもたらされるのです。(ローマ8:28)
教会は神によってこの世から「召し集められ」、この世に「派遣される」ことの間に生きる群れであります。召し集められるのは、みことばに聴き、みことばに生かされるためです。またこの世に派遣されることとは、伝道のためなのです。みことばに生きるようになると、その人は新しく創造された者となり、他者への愛のわざが始まります。

まとめ:
私たちは神のミッションである伝道に励んでいきましょう。クリスチャンの信仰と伝道は直結しているからです。今年こそみことばに生かされて歩む、祝福された一年となることを心からお祈り
申し上げます。


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