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2009/03/29(日) 「初めてのみ言(ザアカイ物語)」畑中康雄勧士
年度末信徒礼拝 (聖書)ルカ19:1〜10

●私が初めて教会を訪れた時に耳にしたみ言葉が今日の聖書の箇所〜ザアカイ物語でした。ザアカイはイエスがどんな人か見たかったが群衆に遮られて見る事が出来ませんでした。
それでイエスを見るためにいちじく桑の木に登りました。キリストがザアカイを愛していてくださった、その愛によって「木の上にいるザアカイ」をイエスが見いだしてくださると言う神様のご計画の中での出会いでした。
 
 イエスは「ザアカイ、急いでおりて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われます。何と!イエスはザアカイの名前を知っておられたのです。神様にありのまま受け入れられる事によってザアカイに「革命的な変化」が起こります。罪の悔い改めです。

●ザアカイは自分がイエスを見つけたと思っていたでしょうが、そうではなくてイエスが既にザアカイを救いのご計画に入れていてくださったのです。「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」この言葉を聞いたザアカイは「悔い改めて、財産以上に大切なものがある事に気づきます。

●ここから先の事、即ちザアカイがどうなったかは聖書に見る事は出来ません。ここでは、ザアカイがイエスに出会う努力をした事、そのザアカイはイエスに出会い悔い改めてイエスの言葉に従った事、そしてザアカイ自身とその家族が救われた事に注目したいと思います。
 この物語はザアカイにスポットを当てた物語ではなくて、このザアカイ物語を通して救いを必要としている人を救うと言う神ご自身の働きにスポットを当てた物語だからザアカイのその後は聖
書の中では必要のない物語なのです。

●今、私は「神の命令に叶う行動を取りたい」と願い、今の職場を退職しようとしています。平成20年度は今の職場で25回も日曜日に仕事がありました。私もザアカイの様に今一度イエス様に捉えて欲しい、見い出して欲しいと願っています。期待と共に不安をもって今までに経験した事の無い、行った事の無い「初めての教会」に行きます。そこで果たしてどんなみ言葉がいただけるのか少々の不安はありますが、祈って決めた事ですので主が私を見つけて「降りて来なさい」と言っくださる事を信じて新しい未知の人生の船出したいと思っています。

2009/03/22(日) 「イエス様とは何者か」副島恵先生
特別礼拝 (聖書)マタイ16:13〜20
ここには、イエス様の「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いに対して、弟子のペトロが、16:16節「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたことが記されている。ペトロがイエス様に対して信仰を告白したことと、イエス様がペトロの信仰告白に対して、ご自分の教会を建てると宣言されたのである。

 イエス様とは何者であるか?また、イエス様を信じる者の群れである教会はどのような土台の上に築かれていくのか?私たちの信仰の根幹に関わることがここで教えられている。イエス様は、ここで私たちにも一つの問いを投げかけている。
それは16:15「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いである。この問いかけにどう答えるかが、私たちの信仰において大切である。

 ペトロはイエス様に16:16「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。ペトロの答えは「イエス様こそ私たちの救い主です」ということである。続けてペトロは「神様は生きておられる。イエス様は、生ける神の子、まことの神として、救いのみ業を行って下さる。救い主として恵みのみ業を行っていて下さる」と信仰告白をしている。

 イエス様はこのペトロの答えに対して、16:17「あなたは幸いだ」と言われた。イエス様は、ペトロの信仰告白を喜んでおられる。私たちも、このペトロのようにイエス様に対して「あなたは私の救い主、生ける神の子です」と答えることができるなら、私たちもペトロと同じ祝福と幸いを受けるのである。

 私たちの信仰の告白の上に、主イエス・キリストの教会が建て上げられていくのある。私たちに与えられている祝福と幸いは、教会において与えられるものであり、教会の一員となることにおける祝福と幸いである。

 父なる神様がペトロに与えて下さった信仰告白をあなたもいただいて、ペトロと共に「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白して、祝福と幸いにあずかろう。あなたもキリストの教会に加えられていくのである。その幸いと祝福を与えようとイエス様は今日もあなたに問いかけておられる。
「あなたはわたしを何者だと言うのか。」

2009/03/15(日) 「荒れ野に響く歓喜の歌」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)出エジプト15:19〜21
序 論:
聖書の中には幾つかの「賛歌」が記されている。
@ハンナの賛歌(祈り)―サムエル一2:1〜11
Aマリアの賛歌―ルカ1:46〜55
Bミリアムの賛歌―出エジプト15:20〜21
 最初に出エジプト15:21のミリアムの賛歌の内容を見ておきましょう。
@まず、歌うよう促している―「主に向かって歌え」
Aその理由が書かれている―「主は大いなる威光を現した」
B賛美の内容―主はエジプトの強力な軍隊の馬と乗り手を海に滅ぼされた。

本 論:
 私たちの「賛美」とは何かを改めて、この出エジプト記15章から学びたい。
(1)賛美とは「荒れ野」の真っ直中で響く祈りである。
賛美は、私たちが荒れ野の真っ直中に置かれたとき、試練や苦しみの中にいるとき、思い悩む時にこそなされるものです。力を失い、かすかな声で賛美しているうちに、神の臨在を感じ、神様がおられるのだから、もう一度初めからやり直そうという元気をいただきます。モーセとイスラエルの民は荒れ野で、危機の真っ直中で神のみわざを経験して歌ったのである。

(2)賛美は神への信仰告白の歌である。
 賛美は神のみわざに対する信頼と期待である。イスラエルの民の信仰はまさに「信頼」と期待」であった。賛美とは、「私は、神さまをこういうお方だと信じています」という信仰告白と同じです。だから、今を主に信頼し、未来を主に期待して心の底から歌いたいものである。

(3)賛美は感謝と喜びの歌である。
♪「感謝と喜びを」のプレイズにあるように、私たちは感謝と喜びを賛美としてささげたいものです。エフェソ5:18〜19に「むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、・・・」とある。パウロの賛美のあり方が紹介されている。

まとめ:
 生涯の終わりの日まで「ハレルヤ」を歌い続けたい。人生の荒れ野に響く賛美こそ、本当の生きた賛美なのである。 賛美によって、神による深い希望、慰め、導きが与えられる。
 一週一週、真剣な礼拝、賛美に満ちた礼拝を、一つずつ丁寧に捧げていくこと。その積み重ねが、神様と私たちとを深くつないでいくのである。
 私たちは、自分の条件に左右されず、喜びの時も、悲しみの時も、神様へ賛美をささげて行こう。喜びの時も、希望が消えかかりそうな時も、賛美のある礼拝をささげられる神の民となって行こう。

2009/03/08(日) 「彼らの信仰を見て」大嶋博道牧師
聖日礼拝 マルコ2:1〜12

序 論:
聖書の中には「信仰がある、信仰がない」「信仰が強い、信仰が弱い」という表現があります。信仰というのは目に見えないものです。いったい、何を規準にそのように表現するのでしょうか。
今日の聖書のみ言葉によると、イエス様は「その人たちの信仰を見て」(5節)、すばらしい奇跡のみわざをなされました。彼らのどのような信仰をご覧になったのでしょうか?

今日はこの事について学んでみましょう。
物話は、イエスがカファルナウムにおられた時の事です。ある家に招かれてみ言葉を語っておられました。そこに登場する人々とは「イエス・群衆・律法学者・中風の人・中風の人の4人の友人」であり、この中でスポットが当たっているのは「4人の友人たち」です。経緯はこうです。
あまりにも人が多く集まっていてイエスに近づく事が出来なかったので「4人の友人は中風の人を屋根を壊してつり下ろした」のです。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の者に向かって、
「子よ、あなたの罪は赦される」と言われます。そして、癒やしの奇跡を行われました。ここに、イエスは「信仰を見て」とあります。

イエスが信仰を見られた物語が他の箇所にも出てきます。
@マルコ5章25〜34節「あなたの信仰があなたを救った(34節)
Aマタイ8章5〜10節「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(10節)
Bマタイ15章21〜28節「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」(28節)
これらの聖書の物語によるとイエスは人々の信仰を見られたのです。

本 論:
イエスがご覧になられたこれらの人々の「信仰」とはどんな信仰だったのでしょうか。これらの物語をとおして、彼らに共通する姿を見ておきましょう。

@イエスを徹底的に信頼する信仰でした。
「一途でガムシャラな信仰」「決して諦めない信仰」、「どんな犠牲をも恐れない信仰」です。このような信仰を持っている者をイエスは受け入れられるのです。死に至るまで忠実に持ち続ける一途な、ひたむきな信仰をイエスは受け入れられるのです。

A愛によって働く信仰がその第2の信仰です。
ガラテヤ5章6節に「…愛の実践を伴う信仰こそ大切」とあります。愛の実践を伴う信仰こそ大切で、そのような信仰をイエスは受け入れられたのです。結局、人を動かし、人を変えることが出来るのは信仰に基づく「愛のわざ」です。私たちは信仰を土台とした愛を実践するときに、周囲の人々を動かすことが出来るのです。

まとめ:
パウロは「信仰と希望と愛」が最後まで残ると言っています。そのうち「最も大いなるものが愛」なのです。
ガムシャラな信仰、直向きで一途な信仰を持ちましょう。そして、愛を土台とした信仰を持ち続けたいと願います。イエス様は必ずその人の「床を取り上げて」立ち上がって歩く奇跡を行って下さいます。

2009/03/01(日) 「嘆きの中で心を挙げよ」大嶋博道
総員礼拝・聖餐式 (聖書)哀歌3:1〜27 
はじめに:
旧約の「哀歌」はヘブル語で「エイカー」と言います。これは、「哀しみに満ちた嘆きの感嘆詞」で「ああ・・・」とか「どうして」という意味があります。
BC587年のバビロン捕囚によりエルサレムは他国によって侵略され、信仰の拠り所の神殿さえも廃墟となりました。預言者エレミヤはこの哀しみに満ちた悲惨な出来事を嘆きました。しかし、
ただ嘆くだけでなく、神への深い信頼から、必ず平和が訪れ、再び国が復興することを確信して待ち望むことができたのです。

序 論:
今朝のテキストからまず学びたいのは、「嘆く」と言う事は人生にとって必要な事であります。
私たちは病気や事故や災害など思いがけない不幸な出来事を嘆きます。世界には戦争やテロや紛争で貴いいのちが奪われたり傷突いたりして嘆く人々がおります。また、飢餓で苦しむ人々が8億人以上おります。この人達の嘆きは実に大きいです。
また、日本に目を転じても、政治や社会の腐敗、教育現場の混乱、また凶悪犯罪、家庭の崩壊など「嘆き」の材料は後を絶ちません。ヤコブ4章8〜10節に「…悲しみ、嘆き、泣きなさい」とあるように私たちは嘆いても良いのです。主イエスも「悲しむ人々は、幸いである」と言われました。(マタイ5:4)

哀歌に目を向けましょう。3章1節〜21節には「わたしは…」と言うように「わたし」で始まる嘆きの言葉が多く言及されています。嘆きの主体はいつも「私」です。しかし、22節からは「主」と言う言葉が多く出てきます。嘆きの苦しみを乗り越えて、信仰によって主に期待し、待ち望むことばが言及されています。

本 論:
今朝の説教題の「嘆きの中で心を挙げよ」は3:41から名付けました。
いったい心を挙げるとはどういうことでしょうか?嘆きは心が下向きですが、嘆きを止めて、主に信頼して感謝と期待の祈りをささげるときに、心は上向きになるのです。心を挙げるとは、

(1)主の憐れみに対する全き信頼を意味します。詩編37・1〜5「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ。」…とある通りです。

(2)主への期待(待ち望み)を意味します。24節に「主こそわたしの受ける分と私の魂は言い、わたしは主を待ち望む」とあるように、「主こそわたしの財産」と言い表し、それを私は待ち望むのです。

(3)主への確信を意味します。それは、31節に主は決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない」とある通りです。嘆かなければならない不幸な状況があっても、主は必ず最善に導いてくださり、豊かに祝福して下さるとの確信が生まれます。心を挙げるとはそのような信仰に至ることです。

まとめ:
「心を挙げる」ことによって、私たちは、主の慈しみは決して絶えず、主の憐れみは決して尽きず、朝ごとに新たになる(22〜23節)事を確信することが出来るのですキリスト者は朝ごとに主の恵みを呼吸し、新たにされるのです。


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