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2009/04/26(日) 「生い立ちから入信まで」 酒井宮夫牧師
F.サンデー特別礼拝 ローマ5:2〜5

 御教会にお招きをいただきまして感謝します。
今日は、神様がこれまでの私の人生の中で成して下さったことを皆様に証しとしてお話させていただきます。
 1939年4月28日に私は生まれました。
私が産まれる半年前に父は天に召されたのです。すでに8、7、4才の兄たちがいたのですが、母は産婆さんに頼み、自宅で私を産んでくれました。それで、兄たちは、幼くして“命の誕生という神聖な経験をしたのです。近所の人たちは私達をよく可愛がってくれました。母親の手一つで4人を育てる姿に見かねて、近所の人が私を養子に出すことを勧め、一週間だけ預けてみることになったのですが、乳を欲しさに泣きじゃくる我が子を見て、母思いを変えて、一人で4人を育てる決心をしたそうです。

 やがて戦争が始まり、家族は戦争によってバラバラになってしまったのです。兄たちは疎開し、私は京都一人預けられたからです。終戦後しばらくして、ようやく家族がそろうことができました。私を迎えに来てくれたのです。

私が小学校に入学した頃、年子の兄たち(長男、二男)が兄弟喧嘩を頻繁にするようになりました。母は決して私たちを叱らず、ただ「人に後ろ指をさされるような人間にだけはなるな。人にあいさつをきちんとしなさい。」とだけ、厳しく言ってくれました。
 
 長兄が高校に進学した時、マタイ11:28が書かれた教会の看板を彼は見つけました。その看板を見ながら、毎日、高校や会社へ通い、そして夏には教会の門をくぐり、その場で受洗しました。そして、弟(二男)を導き、彼も受洗したのです。
実は、兄たちが始めにしたこと、それは、家の中の「宗教改革」でした。家の中には日本のあらゆる神々が祀ってました。ある日、父の月ごとの命日に住職を呼ぶのも兄の願いで最後となったのです。十戒にあるように、唯一の神を礼拝し、偶像を排除したからです。
 
 4年生の時、長男は私を教会学校に連れて行ってくれました。そこでは、「のぞみ組」という入門クラスがあり、2、3ヶ月の後に私は、この子には望みがあるという卒業許可を戴き、入門クラスから卒業しました。今日のテキストにあるように、「希望」という言葉が私の生涯の支えになる言葉です。(私の長女の名前は「のぞみこ」と言います。私が名付けた名前です。)

 私は17歳の時のペンテコステの時、イザヤ書43:4のみことばに感動を覚え、受洗しました。そして、勉強、印刷の仕方、礼儀…身につけることの多くを教会で教えていただいたのです。
 産まれてこなかったかもしれない私が、周りにいる多くの人々から、そして何より神様から愛され、守られ、育てられ、今日、主に仕えるものとされているのです。(感謝)

 人生には山や谷があります。しかし、主に仕える人生には望みあるのです。まさに今朝の聖書のみことばのように「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む・・・。
希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマ5:3〜5)のとおりであります。
今日は生い立ちから入信までの証しをさせていただきました。主に栄光を帰します!

2009/04/19(日) 「信じる者になりなさい」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)ヨハネ20:24〜29

序 論:
 ヨハネによる福音書を貫く一つのテーマがある。それは「信じる者になる」ということである。2章のカナの婚礼の出来事の最後に「弟子たちはイエスを信じた」という言葉が記されている。20章30節からは本書の目的が書かれており、31節で「イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と明確に示してある。

 さて、本日のテキストを見ると、トマスは「・・・この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言う。
これは、彼が実証主義者で不信仰の姿に思えるが、はたしてそうだろうか。実は福音書記者ヨハネはトマスに好意的で、彼の信仰を認めている。イエスに関する鍵となる大切な記事の中で、特にトマスの発言を記録に留めている。〔「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか。」(11章16節)、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(14章5節)〕

 トマスは決して不信仰ではない。復活されたイエスに出会って喜んでいる弟子たちに嫉妬しているのである。イエスに出会えなかった寂しさ、悔しさが「見なければ信じない」と言わせたのであろう。復活から一週間後、主は全く同じように弟子たちの前に現れてくださった。違うのは、今回はトマスもその場に居たことである。そして、トマスが何も言わないうちに、主はトマスに釘跡を見せ、指と手を入れるように示された。ここに主の愛を見る。トマスは、初めて「わたしの主、わたしの神よ」と自ら告白する。主は言われた。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

本 論:
 では、信じる者になるとはどういうことであろうか?
1.イエスを軸とした信仰生活-神を第一にした生活の歩み。人生は、多くの出来事があり、苦難の時も多くある。イエスを軸とした歩みは、ぶれても崩れることがない。

2.関係の中で生きる―人間は人と人の間で人間となる。人と人との関係は、時にぎくしゃくした関係もある。良い関係を築く最も大切なことは、「赦す」ということである。

3.使命に生きる―信じる者になるということには、主イエスのために生きるという使命が伴う。信仰告白をしたトマスは、伝承によれば、アジア伝道の使命に生き、迫害の中で死ぬ。使命とは、命を使うこと。そこには役割がある。その役割は、人の目では未完成かもしれない。しかし、神の目による完成の道が備えられている。

 まとめ:
 信じた者は、ペトロの手紙一1章8節にあるように、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれる人生に変えられるのである。

2009/04/12(日) 「希望の人生―同行者と共に」大嶋博道牧師
イースター記念礼拝 (聖書)ルカ24:13〜35 

序 論: 
 本日はイースター(復活祭)です。心よりお祝い申し上げ、皆さんの上に神の豊かな祝福をお祈り致します。
 キリスト教の教えの中心は「復活」です。「再生とか回復」とも言えます。復活の主イエスを信じた時に「悲しみ」は「喜び」に、「不安」は「平安」に、「不満」は「感謝」に、「絶望」は「希望」に、「暗闇」は「光」に、そして「死」は「生」に変えられます。
かつて日本基督教団の鈴木正久先生が「イースターとは私たちの弱さを清算する日です。」と言われました。皆さん一人一人が「復活の主イエス・キリスト」に出会って、今、抱えている弱さ、思い煩い、心配事、将来への不安などを清算していただきたいと願います。
さて、今朝のテキストには二人の弟子が登場します。彼らは愛するイエス様を失い、故郷のエマオに向かって悲しみの帰途についていました。そこに復活されたイエス様が現れ、彼らと旅を共にされたのです。彼らの目は遮られていて、同行者がイエス様だと認めることが出来なかったのです。
 しかし、夕方になり宿に泊まり食事を共にしているときに彼らの目が開かれ、イエス様だと分かったのです。彼らはこう告白しています。「・・・道で話しておられるとき、聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と。

本 論:
 この物語が、私たちに伝えていることを学びましょう。
それは、誰を人生の同行者(パートナー)にするか、ということです。復活されたイエス様を人生の同行者にすれば、あなたの人生は大きく変えられます。それは、
(1)イエス様を人生の同行者にするならば、真の平安が得られます(ヨハネ20章19節)
 私たちが求める「平安」というのは、いつも条件付きです。
健康であれば、経済的にゆとりがあれば、仕事が順調であれば、子育てがうまく行っておれば、人間関係にギクシャクしたものがなければ・・・・・・・・・。
しかし、条件付きの平安は、その条件が一つでも欠けたときには、平安は不安に変わります。本当の「平安」は、試練の中でも、困難な中でも、病や痛みの中でも、物事が思い通りに運ばなくても決してなくならないもの、消えないものです。ヨハネ14:27でイエス様はこう言われました。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。
わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」復活のイエスと共にあるとき、あなたの生涯の終わりまで「平安」が付きまとうのです。

(2)イエス様を真の希望が生まれます。32節には「私の心は燃えた」とあります。
 復活の主によって心が燃やされる状態が希望と言う状態です。復活の主に出会う事によってその希望が得られます。彼らの失望は一瞬にして「希望」へと変化した。
「希望」は明日を産み出します。「希望」は今日の生活を喜びに変えます。ジョン・ウエスレーはアルダスゲートでルターのローマ書の序文の説教に出会って「心が熱く燃え」、希望が生まれ、新しい人生が始まったのです。

(3)使命に生きる新しい人生が始まります。
 復活の主に出会う時に24節〜33節に語られているように「時を移さず」に出発する事が出来ます。(エルサレムへのUターン)私たちは復活の主に出会うことによって新しい人生を出発したいものです。どうか新しい使命に生きてくださるようにお祈りしています。
「使命」とは、あなたを必要としている誰かに「応答すること(To response)」です。

まとめ:
復活の主イエスと共なる人生には希望があります。心が熱く燃えて、使命を与えられ、悲しみのエマオへではなく、喜びのエルサレムにUターンしましょう。

2009/04/05(日) 「私のゲッセマネ」大嶋博道牧師
受難週(パームサンデー)礼拝 (聖書)マルコ14:32〜42
〔受難週礼拝〕
序 論:
今日のみ言葉〜36節を通して「み心はどのようにして知る事が出来るのか」について学びます。ゲッセマネの祈りの箇所は受難週のみ言葉の中で大切な箇所です。先ず、イエスの受難(苦しみ)はどこから来ているのでしょうか。それは次の三つです。
@霊的な苦しみ〜神と自分との関係の中で引き起こされる苦しみ、神から見放されたのではないかと言う苦しみ。
A精神的な苦しみ〜多くの人にののしられプライドが傷つけられる苦しみ。
B肉体的な苦しみ〜鞭打ちによる肉体的な痛みの苦しみ。
 
 ゲッセマネの祈りとは、「分岐点に立った時の祈り」ではないでしょうか。(分岐点は危機ーcrisisでもあります。)
 イエスは苦い杯を受けるかどうか祈りながら主の「み心」を求められました。それは大切な分岐点に立たれた時の祈りでした。34節には11人の弟子の中で「ペテロ・ヨハネ・ヤコブ」の3人を連れて行かれて祈られたとあります。苦い杯を取り除いて欲しい、しかし、主のみ心に適うようにと三回も祈られました。その時のイエスの祈りは血のしたたり落ちるような祈りでした。
 さて私たちもゲッセマネの祈りの時があります。自分の生き方を神に問う時があります。あなたが人生の分岐点に立った時には安易に選択して行き方を決めないで、神様のみ心を求めて欲しいと思います。

本 論: 
では、神様のみ心を知る方法とは何でしょうか?
@聖書のみ言葉に出会う、と言うのが第1の方法です。ウエッスレーは「私の生きる根拠は聖書だ」と言っています。普段からみ言葉に触れ、み言葉を味わい、み言葉に聴きながら信仰生活をしていただきたい。「み心」を知るのはそのようなあり方においてです。

A静かな、継続した祈りが第2の方法です。祈りとは神様との対話・交わりです。祈る事によって神様からのお導きがあります。どんな時にも神と向き合ってひたすら祈る時に、神様の「み心」は示されるのです。

B礼拝におけるメッセージに触れる事が第3の方法です。
礼拝や集会において、説教者をとおして語られるメッセージの中で、直面している問題や課題への答えや方向性を示されるのです。

Cそして最後に第4の方法はその問題にかかわっている関係者に相談する事です。その問題と直接関わっている信頼できる責任者や関係者にアドバイズを求めること。これも主のみ心を知る大切な方法です。

まとめ:
 人生のゲッセマネで、このようにして「み心」を求めた時には、主への信頼と勝利の確信と、そして全き平安が得られるのです。


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