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2009/05/31(日) 「宣教する教会の誕生」大嶋博道牧師
ペンテコステ記念礼拝 (聖書)使徒言行録2:1〜4

はじめに:
 今日はペンテコステ(聖霊降臨)の日である。キリスト教の3大祭りとして、クリスマス、イースター、ペンテコステがある。このペンテコステとは、ギリシャ語で「第50番目」を意味し、イースターから50日目に行われる収穫感謝祭の日である。ユダヤ教では、7週の祭り、刈り入れ祭とも言われる。キリスト教では、復活されたイエス・キリストが昇天された後、エルサレムに留まって主との約束を信じて待ち望んでいた弟子たちに聖霊が降り、キリスト教会が誕生した記念の日である。

序 論:
 使徒言行録2:1〜4に基づき、ペンテコステの出来事を見ておこう。
@一同が一つになって祈っていた。
A激しい風の吹くような音が天から聞こえた。―風は神の臨在を示す。
B炎のような舌が、一人一人の上にとどまった。―炎は同じく神の臨在を、舌 は言葉を示す。
C一同は聖霊に満たされた。―全身が聖霊に包み込まれ支配された。
D霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。
 聖霊に満たされたペトロは、声を張り上げ、大胆に主を証しする。そして、「悔い改めて、イエスの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」と勧めた。(使徒2:38)その日、主を信じ救われた人々が三千人ほどいたという。(使徒2:41)

本 論:
 結論から先に申し上げたい。聖霊は「宣教」の原動力であり、また、私達の生きる力である。その聖霊に関して幾つかのことを学びたい。

1.聖霊は関わりを求めている―聖霊は待ち望む群れに与えられた。聖霊は、日々私たちとの関わりを求めている。まさに神のパトスそのものである。それは「あなたを選び、祝福した私との関わりの中で生きて欲しい」との切実な呼びかけの情熱である。

2.聖霊は教会の魂である―聖霊は、私達を支え、導く「魂」そのものである(ローマ12:11)
聖霊に満たされるとはこのお方のコントロールの下に身を置くことである。その結果、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」がもたらされる。(ガラテヤ 5:22,23)

3.宣教する教会の原動力―教会は、イエス・キリストを宣べ伝えている時、宣教している時に、「教会」となり、その本質を成す。その宣教の「送り出す力」こそ聖霊である。聖霊は宣教する教会の根源的力である。
 聖霊の力によって起こった初代教会の姿はどういったものだったのだろうか。
@信者たちは皆一つになっていた。
Aすべてのものを共有し、分け合っていた。
B心を一つにして(神殿で)礼拝していた。
C家ごとに集まり集会と交わりをしていた。
D人々に好かれていた。
 私達もこのような教会でありたい。そして教会の使命である「宣教する教会」を目指して前進したいと願う。     

2009/05/24(日) 「ここに愛がある」西脇衛士勧士
F.サンデー信徒礼拝 (聖書)ヨハネ第一 4:7〜16

聖書のテーマは神の愛です。聖書に多くの愛が出てきます。友情・愛情・師弟愛そして神の愛。
愛も大きく2つに分けると「・・だからの愛(条件付)、」「・・・にもかかわらずの愛(無条件)」聖書にある神の愛は無条件の愛です。
ではその神の愛はどこに現われたのでしょうか。
1,人は創造のはじめに神に敵対し罪を犯し滅びの道を選びました。その時から神は人類を救う壮大なマスタープランをお造リになりました。
預言者を通して神の愛を知らしめようとされました。そして2000年前、家畜小屋にその愛を現われました。ルカ2:12 ヨハネ3:16神が人になるという形で神の愛を現わされたのです。

2,その愛は価値ある者に向けられたのでしょうか。何か選ばれるものがあったからでしょうか。そうではありません。神に敵対する罪人に、不信心な者に現わされました。 ローマ5:8 私が神を選んだのではない。神が私を選んで下さったというのです。ヨハネ15:16 

3、私たちに向けられた愛はどこに現わされたのでしょうか。
その愛は私たちを贖う(救う)ために十字架にかかり、命を投げ出して下さいました。
神の愛は十字架の上に現わされました。 そして、ここに愛があるといっています。1ヨハネ4:10この愛は神がご計画され、預言され、全ての人に無条件で提供されているのです。

無条件の「愛」は神様が持っておられるものです。私たちに神の愛は全くありません。私たちは条件付の愛しかないのです。ですから聖書が言っている「互に愛し合いなさい」と言うことが出来ないのです。聖書は人間はそのことにおいて全くの無能であるといっています。ヨハネ15:5

ではどうすれば互に愛し合うことが出来るのでしょうか。神様からいただく以外にありません。ですからパウロは「兄弟愛に愛を加え(いただき)なさい」といっています。(1ペテロ1:7)

私たちは愛の章と言われる1コリント13章を読むとき愛に対して無能であり、無力であることを知ります。水を貯めることの出来ないざるに水を満たすのにどうすればよいでしょうか。ざるを水につける以外にありません。イエス様は言われました「私の愛(の中)にとどまりなさい。」「わが愛に居れ。」(文語訳)そのために祈りの中で、みことばを読むとき、神様のして下さった愛を日々実感しましょう。そして惜しみなく与えて下さる神様に愛を求めましょう。そこに聖霊なる神様はお働きになり神の愛に満たして下さいます。 

2009/05/17(日) )「初めのわざを行いなさい」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)ヨハネ黙示録2:1〜7

はじめに:
物事には「基本」や「原点」あるいは「初心」というものがあります。今日は私たちの信仰生活に関して、ヨハネ黙示録から学びたいと思います。

序 論:
ヨハネ黙示録は、AD95年頃、迫害下でヨハネが地中海のパトモス島に流刑にあって、そこで幻の中で神の語りかけを聴き取ったものを7つの教会に書き送ったものです。
「黙示」とはギリシャ語の「アポカリュプス('Aπōκάλυψις)」の訳であり、原義は「覆いを取る」ことから転じて「隠されていたものが明らかにされる」という意味であります。

 さて、エフェソの教会は当時の厳しい迫害の中で、行いと労苦と忍耐において模範的な態度で対処したゆえに称賛されています。ところが、長い間の困難な闘いの中で、大事なものを見失ってしまったのです。神の厳しい指摘はエフェソの教会が「初めのころの愛から離れてしまった」というのです。(2:4)
「初めのころの愛」とは、イエス・キリストの十字架の死と復活を心から信じて、それに拠り頼んで信仰生活を始めたころの「イエス・キリストへの熱心な愛」あるいは「キリストへの愛の根源(根っこ)」のことです。つまり信仰の中心を意味します。そこから離れたというのです。「離れる」とは堕落するとか、転げ落ちることを意味し、本質から遠ざかった現実を意味しています。

 私たちの生活に当てはめると。結婚生活にも、社会での仕事(会社員・店員・教師・医師・助産師・看護師・牧師など)やスポーツ選手や芸術家や音楽家などにしても「初心(基本的な態度)というものがあります。年数の経過とともに慣れてきて、時にはマンネリに陥ったり、中心から大きくズレることさえあります。
「信仰生活」に的を絞って考えましょう。礼拝生活、賛美や祈り、伝道、奉仕、献金のあり方などにおいてどうでしょうか?そこに喜びや感謝や平安があるでしょうか?燃えるような熱心さがあるでしょうか?聖なる使命と信じて行っているでしょうか?

本 論:
ヨハネはエフェソの教会に人々に3つのことを勧めています。
(1)どこから落ちたかを思い起こすこと(心に深く刻むこと)
想起するということは大事なことです。これは「聖餐式」と類似する言葉です。私たちはオパンとぶどう汁をとおしてイエス・キリストを記念します。思い起こすのです。そして心に刻み込むのです。そのことによって信仰生活に喜びや感謝や希望がさらに生まれるのです。

(2)悔い改めること
「メタノイア」とは悔い改めのことですが、「方向転換」を意味します。今まで生きてきた道が間違っていたことを確認し、向きを変えて再出発することです。勇気のいることですが、祝福へのユーターンです。

(3)初めのわざを行うこと
ある訳では「立ち戻れ」となっています。強い命令です。「初めのわざ」とは、救われて信仰生活を始めたころの燃えるような、輝くような、新鮮な気持ちのことです。信仰生活の初めにおいては何も分からなくても、一途に主を愛し、礼拝や集会に励み、祈り、奉仕し、献げてきました。礼拝が待ち遠しいほどの思いでした。そうです、あの頃の「初めのわざ」に立ち戻るのです。

まとめ:
 著者は厳しく「もし、悔い改めなければ、あなたの燭台を取りのける」と言ってます。(2:5)
燭台とは教会のことです。初めのわざを行わないでダラダラと形式的に、惰性的に信仰生活を送っているのなら教会を取り上げるというのです。まことに恐ろしいばかりの忠告ですね。
教会がこの世の灯台(世の光・地の塩)の役目を果たさないなら、存在の意味がありません。取り除かれても仕方ないのです。
 私たちの教会がますます主に用いられ、この世にあって、聖なる業を行うことが出来るように、日々祈りつつ励みたいものです。祝福をお祈り致します。

2009/05/10(日) 「だから母は我が子に」大嶋博道牧師
母の日記念礼拝 (聖書)サムエル上2:18〜26

序 論:
今日は「母の日礼拝」としてサムエルを育てた「ハンナの子育てについて」学びます。
サムエルが生まれる前の出来事が1章にあります。それによると「ハンナは不妊の女でした」「神殿に行き祈りました」「生まれた子どもを神に捧げると誓いました」「そしてサムエルを産みました」「サムエルを乳離れするまで手元で育て」やがて「祭司エリに預け、サムエルはそこで豊かに育ち」「ハンナはサムエルのために毎年エフォド(祭司の上着)を送り届けた」とあります。
 一方、2章には祭司エリに与えられた2人の子どもの事がサムエルと対比して書かれています。エリの息子はならず者で主を知ろうとはしなかったとあり、神殿に捧げられた肉を横取りしたとあります。これは神を冒涜する罪でした。そしてこの事を諭した父親の声に息子は耳をかさなかったとあります。そして、主は彼らの命を絶とうとしておられたのです。

本 論:
 サムエルが偉大な人となったのはハンナの子育てにありました。
ハンナは@真剣に主に祈る人でした。
皆さんは子育てのためにどれだけ祈りましたか。(ハンナと共にアウグスチヌスの母モニカも放蕩に身を崩した子どものために涙を流して祈った代表的な母の一人として良く知られています)涙の祈りの子は決して滅びることがないのです。

Aハンナは自分の子どもを神に委ねることが出来ました。
「委ねる」とは、神に信頼し、期待すること、期待して待つことです。ハンナのように乳離れした我が子を神殿のエリ先生の元に託す中で、我が子を神様におゆだねする事が出来るでしょうか。皆さんは我が子に期待していますか?祈っていますか?
神様におゆだねしていますか?

Bハンナはサムエルに愛をいっぱい注ぎました。
毎年、サムエルの成長に合わせてエフォドを縫って、神殿に詣でるときにそれを我が子に贈り続けたとあります。ここに母の愛をみる事が出来ます。母の犠牲的な愛は子どもを豊かなに育みます。母の痛みなしに、子どもは健全に成長しないのです。
 
まとめ:
 サムエルの父エルカナと母ハンナの祈りと、神に全く委ねる信仰と、犠牲的な愛こそ、一人の子どもを偉大な祭司、指導者に育て上げたと言えます。
物質的に豊かな現代の中で、「子育ての困難さ」を感じます。しかし、子どもが健全に育つ秘訣が、このサムエル記上1〜2章にみごとに記されています。改めて、聖書を読み直しましょう。神様はあなたの子どもを心身共に豊かに育んでくださいます。

2009/05/03(日) 「ホレブの山で主の前に立て」大嶋博道牧師
総員礼拝 (聖書)列王記上19:1〜19 

序論: 
17章で神の人と呼ばれるエリヤが登場する。続いて18章では、偽の預言者850人に対して、エリヤは神の力によって、劇的な勝利をする。しかし、19章では一転して、ひどく落ち込んだ「鬱(うつ)」状態のエリヤを見る。アハズ王の妻イゼベルはエリヤに使者を送り、明日のこの時間までにエリヤを殺すと宣言する。これを聞き、恐れたエリヤはベエル・シェバへと逃れていき、えにしだの木の下に横たわり、死にたいと神に願う。

 18章では、偽の預言者850人が、自分の神々に必死に祈った。それに対してエリヤは、唯一の真実なる神に祈った。エリヤの祈りは聞かれ、天より火が降り、雨が降った。力強い神の力を体験し、主の臨在を感じていたことだろう。それなのに、アハブとイザベルに命を狙われると、恐れて戦いの場から逃避して「死にたい」と神に訴えたのである。これは、急性の鬱(うつ)と呼ばれるものではないだろうか。エリヤが鬱になった理由は2点。
一つ目は、状況が変わらなかったこと。エリヤは劇的な勝利をした。しかし、偶像礼拝は依然として行われていた。
二つ目は、誰もエリヤを誉めなかったことである。
 しかし、やがてエリヤは、再び神に励まされ、回復して行き、新しい使命を与えられて再び戦いの場であるエルサレムへと向かう。
エリヤが憂鬱から回復し、新しい生命を戴いたのは、どういうことからだろうか。ここに、私たちが疲れて憂鬱状態から回復する方法を見る。

本論:

1.神の配慮の御手にゆだねる。
神の御使いは、2度もエリヤに現れ、触れ、食べ物を与えて励ました。神から与えられた配慮の食事をすること。イエス様は、十字架の前に弟子たちと食事を共に最後の晩餐をされた。また、復活された直後にも、まず弟子たちと食事を共にされた。「子たちよ、何か食べ物があるか?」と呼びかけられた。家族で共に食卓を囲むこと、そして霊的には共に主の晩餐に与ることは、心身の疲れを取り除く大切な手段である。

2.神の山ホレブで神の御前に立つ。
エリヤはベエル・シェバで食事を戴き、主の導きでさらに先のホレブに向かって出発した。「ホレブの山」はその昔、モーセが十戒を賜った聖なる場、神が臨在される場である。彼はホレブで神と出会ったが、弱音を吐き「洞穴」に籠ってしまった。彼自身のカラに閉じこもったのである。神に「出てきなさい」と言われても、出ることができなかった。神は、ご自身の臨在を示すため、風、地震、火を用いたが、エリヤは気づかなかった。神は、力強い大きな印ではなく、「静かにささやく声」をもってエリヤに語りかけた。
 この神の静かな、細き声を聴き取ったエリヤはようやく閉じこもっていた洞穴から出て、神の前にたったのである。

まとめ:
 私たちはしばしば、ホレブの山(神の臨在の中)におりながら、自分のカラに閉じこもり、神の前に立とうとはしない。恐れや疑いや不安などの洞穴に閉じこもっているのだ。
今朝、「主の静かな細きみ声」を聴こう。そして、大胆に主のみ前に立ち、主から力強い霊的ないのちを戴いて、疲れを回復させ、新たな使命の場に遣わされたいものである。
「主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。」(申命記31:8)


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