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2009/05/17(日)
)「初めのわざを行いなさい」大嶋博道牧師
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聖日礼拝 (聖書)ヨハネ黙示録2:1〜7 はじめに: 物事には「基本」や「原点」あるいは「初心」というものがあります。今日は私たちの信仰生活に関して、ヨハネ黙示録から学びたいと思います。 序 論: ヨハネ黙示録は、AD95年頃、迫害下でヨハネが地中海のパトモス島に流刑にあって、そこで幻の中で神の語りかけを聴き取ったものを7つの教会に書き送ったものです。 「黙示」とはギリシャ語の「アポカリュプス('Aπōκάλυψις)」の訳であり、原義は「覆いを取る」ことから転じて「隠されていたものが明らかにされる」という意味であります。 さて、エフェソの教会は当時の厳しい迫害の中で、行いと労苦と忍耐において模範的な態度で対処したゆえに称賛されています。ところが、長い間の困難な闘いの中で、大事なものを見失ってしまったのです。神の厳しい指摘はエフェソの教会が「初めのころの愛から離れてしまった」というのです。(2:4) 「初めのころの愛」とは、イエス・キリストの十字架の死と復活を心から信じて、それに拠り頼んで信仰生活を始めたころの「イエス・キリストへの熱心な愛」あるいは「キリストへの愛の根源(根っこ)」のことです。つまり信仰の中心を意味します。そこから離れたというのです。「離れる」とは堕落するとか、転げ落ちることを意味し、本質から遠ざかった現実を意味しています。 私たちの生活に当てはめると。結婚生活にも、社会での仕事(会社員・店員・教師・医師・助産師・看護師・牧師など)やスポーツ選手や芸術家や音楽家などにしても「初心(基本的な態度)というものがあります。年数の経過とともに慣れてきて、時にはマンネリに陥ったり、中心から大きくズレることさえあります。 「信仰生活」に的を絞って考えましょう。礼拝生活、賛美や祈り、伝道、奉仕、献金のあり方などにおいてどうでしょうか?そこに喜びや感謝や平安があるでしょうか?燃えるような熱心さがあるでしょうか?聖なる使命と信じて行っているでしょうか? 本 論: ヨハネはエフェソの教会に人々に3つのことを勧めています。 (1)どこから落ちたかを思い起こすこと(心に深く刻むこと) 想起するということは大事なことです。これは「聖餐式」と類似する言葉です。私たちはオパンとぶどう汁をとおしてイエス・キリストを記念します。思い起こすのです。そして心に刻み込むのです。そのことによって信仰生活に喜びや感謝や希望がさらに生まれるのです。 (2)悔い改めること 「メタノイア」とは悔い改めのことですが、「方向転換」を意味します。今まで生きてきた道が間違っていたことを確認し、向きを変えて再出発することです。勇気のいることですが、祝福へのユーターンです。 (3)初めのわざを行うこと ある訳では「立ち戻れ」となっています。強い命令です。「初めのわざ」とは、救われて信仰生活を始めたころの燃えるような、輝くような、新鮮な気持ちのことです。信仰生活の初めにおいては何も分からなくても、一途に主を愛し、礼拝や集会に励み、祈り、奉仕し、献げてきました。礼拝が待ち遠しいほどの思いでした。そうです、あの頃の「初めのわざ」に立ち戻るのです。 まとめ: 著者は厳しく「もし、悔い改めなければ、あなたの燭台を取りのける」と言ってます。(2:5) 燭台とは教会のことです。初めのわざを行わないでダラダラと形式的に、惰性的に信仰生活を送っているのなら教会を取り上げるというのです。まことに恐ろしいばかりの忠告ですね。 教会がこの世の灯台(世の光・地の塩)の役目を果たさないなら、存在の意味がありません。取り除かれても仕方ないのです。 私たちの教会がますます主に用いられ、この世にあって、聖なる業を行うことが出来るように、日々祈りつつ励みたいものです。祝福をお祈り致します。
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