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最新の絵日記ダイジェスト
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2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2009/06/28(日) 「アブラハムの転機」西脇衛士勧士
F.サンデー信徒礼拝 (聖書)創世記17:1〜8 
私たちの人生にはいくつかの転機がある。誕生、入学、就職、結婚、出会いと別れなど。そのような転機をどのように受け止めてきたかによってその人の人生も変わってくる。転機、それは竹の節のようなもの。その節が竹を強固なものとするのある。今朝、アブラハム175年の生涯の中で彼の人生の節をどのように迎えたかを見てみたい。

本 論:
 アブラハムのいくつかの転機について考えてみたい。
@神の声を聞いてた時・・アブラム、父と共にウルの町から召し出されて後、神の声を聞く。「私が示す地に行きなさい」 神はアブラハムを通して、イスラエルの民を興こし、神が救いのご計画をはじめようとされた。この時アブラハムは信仰によって神の声に無条件で従っていった。(創12:1・ヘブライ11:8)もしこの時、神様の声に従わなかったらアブラハムとその子孫に用意された無尽蔵の神の祝福とのちの人類の祝福はなかったかも知れない。私たちに与えられた神の約束と信仰を大切にしたい。

A神の約束を知らされた時・・アブラムには子供がなかったし、妻サラは子を産める年齢では無くなっていた。その時、神はアブラムに「お前の子孫を夜空に輝く星のように増やそう」と約束された。その時、アブラムは主を信じた。神はその信仰を見られて彼を義と認められた。律法による義では無く、信仰による義である。故に彼は「信仰の父」と呼ばれるのです。私たちも信仰によって義と認められた者である。

B暗黒の時に神の声を聞く・・不妊の妻を見て人間的な策略をし、アブラムは13年、神との交わりの絶えた暗黒の時を過ごす。その後アブラム99歳の時と聖書は明確に語っている。その時、神は自らを現わし「私は全能の神である。私は約束をしたことは決して忘れない」といわれ、「わたしの前を歩み、全き者となれ」とアブラムに求められた。神の全能を当てにする歩みである。その時名をアブラハムと変えられる。

C神に試みられた時・・アブラハムは約束のひとり子を捧げよとの神の声を聞いた時、アブラハムは従順に従った。復活(ヘブライ11:19)と神の全能を信じたのである。その時、神様は必要を備えて下さっていた。

結 論:
 アブラハムとて生まれながらの信仰の人ではなかった。 偶像の町、偶像に仕える家に生まれた。また欠点の多い人物でもあった。その彼が「信仰の父」と呼ばれる理由は何だった
のでしょうか。@聖別された人 A忍耐の人 B実行の人 C希望を持った人 D祈りの人であった。そして多くの試練と神の試みを経た人であった。
 
今、私たちは多くの試練と忍耐と試みに会い、祈りを必要とする生活の中にいるかも知れない。しかし「私は全能の神である」と宣言して下さる神により頼んで、全き者としての信仰生活を、また多くの試練、試みを信仰を持って通過し、人生の大きな節として頂き、アブラハムのように神の国を目指して信仰生活を続けていきましょう。

2009/06/21(日) 「明日のための心配は無用です」大嶋博道牧師
花の日礼拝  ルカ12:22〜32

序 論:
今日のみ言葉の中に「だから」と言う言葉が3回使われており、その後に「…思い悩むなとあります。
(「だから」とはルカ12:13〜21の自分のために倉を建てて豊作の穀物を収納した愚かな金持ちの生き様を指しています。イエスは「今夜、命を失ったら倉の穀物は誰のものになるのか?」と問いかけています。だから、「あくせく思い悩むな」というのです。)
 さて、「思い悩み」は一体どこから来るのでしょうか。「思い悩み(メリムナ)」とは、ある事柄に心が虜になること、また「心が集中出来ない」状態すなわち「心の分割」を言います。私たちの思い悩みは@お金の事A健康の事B自分に課せられた責任を果たす能力の事C容姿の事D性格の事E人間関係の事F子育ての事G仕事の事H結婚の事I自分の将来の事、等々生きていく上で生じる様々な事から生じてきます。あれこれ思って心が集中出来なくなり、不安定になるのです。
●では、人間は何故「思い悩む」のでしょうか。
 @私たちの未来が自分の思うようにならないから
 A私たち人間は全ての事柄をマイナスに考えるから
 B私たちは物を持ちすぎているから
 C私たちは人間の存在が本質的に未完成であると言う事を受け入れないから
 D私たちは自分の人生を神様に委ねる事が出来ないから。

本 論:
●イエス様は今日の聖書のみ言葉にあるように私たちの目を「空の鳥や野の花」に向けさせられました。それは、空の鳥(カラス)は種も蒔かず、刈ることもないのに神は養って下さり、野原の花(野アザミ)は働きもせず、紡ぎもしないのに神は装って下さるのです。「まして、あなたがたにはなおさらのことである」(28節)と神は言われます。
●神は、「わたしの目にはあなたは高価で貴い」と言われます。何故なのか?それは@人間は神にかたどって造られているからです。A人間は最も貧弱だからです。B人間の命は全世界よりも重いからです。Cイエス・キリストは人間のために貴い命を十字架の上で犠牲にされたからです。
●野の草花を見ながら、神様のご配慮に気づきたいと思います。神のご配慮は「予め見ておられる神(pro-video)」です。
まとめ:
 明日は神様の領域です。私たちの持ち時間ではないのです。私たちは、明日に向けられている私たちの思い悩みをすべて神に委ね、最善が成ることを信じて生きるだけでいいのです。
花の日に、もう一度「明日のための心配は無用」という聖書のメッセージを心に刻みましょう。

2009/06/14(日) 「自分の居場所は」 畑野順一牧師
特別礼拝 (聖書)マルコ14:51〜52

 昔、聖書研究会をしていた時、一人の青年が、返答しにくい質問を私に私にした。そのことがきっかけとなり、この箇所を深く読み、学ぶうちに、この記事の内に秘められたものに気づかされた。
 この記事の直前には、イエスが逮捕される記事があり、そして直後には裁判にかけられるという記事が記されている。言うなれば、十字架へと向かうクライマックスな部分である。しかし、福音書記者マルコは、その2つの記事の間に、この記事を記した。これは福音書の中でもマルコのみの記事である。この「逃げた若者」とは、伝統的に、福音書記者マルコであると言われている。私もそうであると信じている。このマルコとは、パウロと共に伝道するも、袂を分かち、伝道旅行の半ばで帰ったマルコである。彼は後にこの福音書を記すほどの信仰に立った。
 
 さて、彼は、イエス逮捕時に一度逃げ、そしてイエスのことが気になり、心配で様子を見ながらついて行ったことが分かる。しかし、人々に見つかり、捕われそうになると、自分の身が大切で、命からがら逃げて行った。これが裸で逃げて行ったということである。
 50節、弟子は皆(マルコを含め)逃げてしまった。このことを記してある以上、わざわざ51、52節を記す必要はなかったように思える。しかしマルコは、自分もイエスを見捨て、信じてきたものを否定し、逃げた者であると堂々と書き記した。
 マタイも同じように、マタイによる福音書10:3に、自らが徴税人であったことを記す。弟子のマタイが徴税人だと知っていた人は少なかっただろう。また、徴税人は当時ローマの手先として嫌われていた。しかし、マタイは記した。このような私をも主は愛してくださったと、堂々と書き記すことで告白したのである。
 言いたくもないような過去を記すことで、このような自分に御手を差しのべてくださった主イエスの深い愛とその十字架の重さ、尊さを再度知ることができる。マルコの信仰は、この告白に始まる。イエスを見捨てたここから、マルコの真の信仰が始まるのである。マルコの居場所は、イエスを見捨てた自分が、導かれ、守られ、召され、用いられている。その恵みと愛による信仰の原点であるここである。

 私達の居場所はどこだろうか。それは、最も目を背けたいところにある。そのような自分をも愛し守り導き給う主イエスと出会うことができるからである。
その主の愛、慰めが居心地の良い場所としてくださるのである。
 主はどんな時も愛してくださっている。私達は、このキリストと出会い、愛されているという喜びに立つ時、苦しい時も困難の時も、快い居場所に立ちながら日々を歩むことができる。

2009/06/07(日) 「信じる心を受け継がせよ」大嶋博道牧師
総員礼拝 (聖書)申命記6:4〜15

序論:
信仰継承を考える時に、我が子や次の世代に信仰を受け継がせるためにどうすればいいだろうか。これは、私たちの課題とも言えるだろう。「信仰継承」とは何だろうか。それは、イエス・キリストと出会い、救われたこと、神の恵みの中で喜びと感謝の生活をしていることを伝えることである。信仰継承とは、「クリスチャンになれ」と、勧めることではない。神の豊かな恵みに与る方法を教えることである。

信仰の継承の難しさは聖書人物の失敗例をみればよく分かる。
○信仰の父と呼ばれるアブラハムとサラは、神の約束を待てずに、ハガルとの間にイシュマエルをもうける。その結果、イシュマエルとイサクは争い、ハガルとサラも争った。
○イサクの双子の子らも争った。イサクは長男を愛し、妻リベカは弟の方を溺愛したからである。
○サムエル記にあるように、優れた祭司であるエリの2人の子、ホフニとピネハスは、神殿で育ちながらも、神に対し罪を犯し続けた。2人は戦死し、ピネハスの妻は子にイカボド(栄光は失われた)と名付けた。エリは子の死を聞いて、席から落ちて死んだ。
○サムエルの子らもまた、罪を犯し続けた。ダビデの子らも、後継者争いで親子、兄弟の対立がしばしばあった。信仰の継承からほど遠い歩みであった。

このように、偉大な人物の家庭でも、信仰継承ができなかったことを聖書は記している。それほどに信仰継承は難しいことである。が、だからと言って無視できない、大きな課題である。

本論: 
ではどうすれば言いだろうか。結論は、聖霊の業を信じ、神の時を信じて、熱心に祈り続けることである。祈りなしにして、また、聖霊の働きなしにして救いはありえない。
具体的な方法を述べてみたい。 

1.日々の目に見える働きを通して―申命記6:4は、律法の全てである。何よりも第一に神を愛せよという。69節にあるように、@心に留めるA繰り返し教えるB語り聞かせるCしるしとして身につけ、戸口や柱や門に書き記す。

2.信仰を宿らせる―若き伝道者テモテは母エウニケから、さらに祖母ロイスから信仰を受け継いだ。彼らに神の言葉が宿ったのである。信仰の継承に大切なのは、自分が信じている紙の言葉を子どもや孫に「宿らせる」ことである。

3.祈り続ける―信仰が次世代の子供や孫に継承するために、忍耐強く祈り続けることである。アウグスチヌスの母モニカは我が子のために涙の祈りを祈り続けた。

*牧会をしている私の父は、自らの信仰継承をこう語った。
1.背中で示した―自らの生き様による信仰継承
2.情熱―何としてもこの子を救ってほしいと熱心に祈った。これはクリスチャンの使命である。

まとめ:
創世記22:8、「二人は一緒に歩いて行った」6節にも同じ記述がある。大変な試練の中であっても、忍耐強く、希望を持って、共に歩み続けること。そうすれば神は神ご自身の「聖なる時」に必ず答えてくださる。忍耐して、希望をもって信仰継承のために励みたいものである。神は必ず、働いて下さるから


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