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2009/06/14(日)
「自分の居場所は」 畑野順一牧師
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特別礼拝 (聖書)マルコ14:51〜52 昔、聖書研究会をしていた時、一人の青年が、返答しにくい質問を私に私にした。そのことがきっかけとなり、この箇所を深く読み、学ぶうちに、この記事の内に秘められたものに気づかされた。 この記事の直前には、イエスが逮捕される記事があり、そして直後には裁判にかけられるという記事が記されている。言うなれば、十字架へと向かうクライマックスな部分である。しかし、福音書記者マルコは、その2つの記事の間に、この記事を記した。これは福音書の中でもマルコのみの記事である。この「逃げた若者」とは、伝統的に、福音書記者マルコであると言われている。私もそうであると信じている。このマルコとは、パウロと共に伝道するも、袂を分かち、伝道旅行の半ばで帰ったマルコである。彼は後にこの福音書を記すほどの信仰に立った。 さて、彼は、イエス逮捕時に一度逃げ、そしてイエスのことが気になり、心配で様子を見ながらついて行ったことが分かる。しかし、人々に見つかり、捕われそうになると、自分の身が大切で、命からがら逃げて行った。これが裸で逃げて行ったということである。 50節、弟子は皆(マルコを含め)逃げてしまった。このことを記してある以上、わざわざ51、52節を記す必要はなかったように思える。しかしマルコは、自分もイエスを見捨て、信じてきたものを否定し、逃げた者であると堂々と書き記した。 マタイも同じように、マタイによる福音書10:3に、自らが徴税人であったことを記す。弟子のマタイが徴税人だと知っていた人は少なかっただろう。また、徴税人は当時ローマの手先として嫌われていた。しかし、マタイは記した。このような私をも主は愛してくださったと、堂々と書き記すことで告白したのである。 言いたくもないような過去を記すことで、このような自分に御手を差しのべてくださった主イエスの深い愛とその十字架の重さ、尊さを再度知ることができる。マルコの信仰は、この告白に始まる。イエスを見捨てたここから、マルコの真の信仰が始まるのである。マルコの居場所は、イエスを見捨てた自分が、導かれ、守られ、召され、用いられている。その恵みと愛による信仰の原点であるここである。
私達の居場所はどこだろうか。それは、最も目を背けたいところにある。そのような自分をも愛し守り導き給う主イエスと出会うことができるからである。 その主の愛、慰めが居心地の良い場所としてくださるのである。 主はどんな時も愛してくださっている。私達は、このキリストと出会い、愛されているという喜びに立つ時、苦しい時も困難の時も、快い居場所に立ちながら日々を歩むことができる。
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