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最新の絵日記ダイジェスト
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2009/07/26(日) 「いのちの代価」副島恵牧師
特別礼拝 (聖書)マタイ16:21〜28

今日のテキストの結論は、24節、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」ということである。「わたしに従いなさい」なのだから、イエス様の後ろに従って行くこと、それは信仰者の姿である。

 自分を捨てるとはどういうことだろうか。私達は、自分を捨てるとは、自分のしたいこと、目的を捨て他人のために生きることだと考え、自分の十字架を背負うとは、苦しみを負う事、忍耐する事を考えがちである。しかし、主が言われることはそうではない。
 25節、ここには命を得る方法が記されている。自分のことより他人のためにという事を主は言われていない。「自分のために、自分の命の救いのために生きなさい」と主は言われる。26節、主は自分にとって何が本当に得か考えなさいと言われる。自分を大切にする、自分の命の救いのために生きる。それが、自分を捨て自分の十字架を背負って生きるということ。それは自己否定ではない。「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」それは、どんな代価を支払っても得る事が自分ではできない。
 
 ルカによる福音書12:16の譬え話はこのことを分かりやすく譬えている。この金持ちの行動は、自分の命を救いたいという思いから来ている。しかし、この金持ちは、自分の命が神の支配の内にあることを忘れていたのである。私達が命を得るという事は、私達自身ではできず、神のみによるのである。
 
 もう一つの結論は、命の代価は支払うことができない。それほど命は貴く、神様のみが支払い、私達を救ってくださるのである。そして、その代価は既に支払われているのである。それは、神の御子イエス・キリストの命である。その命は私達の命の代価として支払われた。それほどに神は私達のことを愛しておられる。
 しかし、私達は神の御心を知る事ができない。ペトロでさえ分からなかった。ペトロは私達の代価であるイエス様の十字架を拒んだ。それは、イエスに関して他の事に期待していたからである。弟子として、自分は神の前に、また人々の前に力ある者とされる、つまり自分で自分の救いを求めたのである。しかし、主はペトロに「サタン、引き下がれ」と強く命じられた。
 
  自分を捨てるとは、イエス様の十字架によって私達に与えられている救いを得ようとイエス様の後を歩んで行く事である。この歩みは栄光の歩みではない。十字架を背負う歩みは、この世的に非難迫害がある。しかし、その道のりは主の十字架の道と重なっていく。十字架にこそ命と救いがある。
 
27節には最後の審判のことが記されている。「それぞれの行いに応じて報いる」という記述に対して、自分が救いに与れる器かどうかと不安が生じるだろう。しかし、不安を煽るために聖書がこれを語っている訳ではない。御子を与えるほどに私達を愛してくださる神の裁きなのである。私達は、ただ主の御跡につき従って歩んで行きたい。

2009/07/19(日) 「イエスの焼き印を心に」大嶋博道牧師
聖日礼拝 ガラテヤ6:11〜18
 
序 論:
「焼き印」というのは、当時、羊や時には奴隷などにつけた印である。羊であれば、焼きごてで持ち主の印をつけました。羊が入り混じった場合にも、その焼き印で、羊の所有者がすぐに分かるようにしたわけです。奴隷であれば、刺青によって、主人の印をつけて、誰に所属するかを示したわけです。ですから「焼き印」を身に受けるということは、自分の所有者、主人がだれなのかということが明らかにされたわけです。パウロは「イエスの焼き印を身に受けている」と言いました。

パウロの告白は、
@私の主人はイエス・キリストでる。
A私はイエス・キリストのものである。(イエスに所属するもの・繋がるもの)
これはローマ14:8「生きるにしても死ぬにしても私たちは主のもの」というパウロの告白のとおりです。
「焼き印」と訳されたギリシャ語の「スティグマータ」は「焼き印」とか「傷痕」と訳され、所有者を示す図柄や文字が刻まれていました。ではパウロの「イエスの焼き印」とはどんなものだったのか。
(1)パウロの身体には「伝道の労苦の傷跡」が身に刻まれていたという解釈が一般的である。第二コリント11章24節以下にパウロ自身が述べている数々の苦しい経験は、傷跡になって彼の身体に残っていたであろうことは想像できる。
「イエスの焼き印」ということには、さらにもう一つ深い意味がある。
(2)それはイエス・キリストの十字架の贖いの死に対する負い目パウロほど、イエス・キリストの十字架にこだわった人はいないと思われます。
つまり、イエスの十字架の死の意味を「罪のための贖いの死」と位置づけて、そこに私たちの罪からの救いを見出した人です。(ローマ3:23〜24、5:8)

本 論:
「イエスの焼き印を身に帯びた生き方」とはどのような生き方なのでしょうか?
(1)洗礼を受けてキリスト者とされたことを「告白的」生きる。
  自分がキリストに(教会に)所属していることを告白しながら生活すること。
(2)主の十字架と復活に基づいた信仰生活であること赦された喜び。
  復活のいのちに与った感謝と希望の生活をしたいもの。
(3)みことばと祈りと讃美による喜びと感謝の生活
  日々、聖書のみ言葉を魂の奥深くに常宿しながら歩むこと。
(4) イエス・キリストを宣べ伝える生活
  家族や近隣に伝道することを使命として生きること。
(5)愛の実践を伴う信仰に生きる。(ガラテヤ5:6)
  最終的に人を動かすのは神の愛であることを実践をとおして証すること。

まとめ:
 今日、私たちのほとんどは、目に見える「焼き印」を身に帯びてはいない。しかし、イエスキリストを信じて洗礼を受けてキリスト者になったこと、この教会に所属して信仰生活をしていること、礼拝、讃美、祈り、奉仕、献身すべてが「イエスの焼き印」を受けたしるしであります。「イエスの焼き印」を身に受けている私たちの人生の最終責任は主イエス・キリストが負って下さることを心から信じて、主に委ねて歩んでいきたい。

2009/07/12(日) 「新しい人生の生き方」大嶋博道牧師
伝道献身者奨励礼拝 〈聖書)イザヤ書6:1〜8・ローマ12:1〜2

 人は何に出会ったら変わるのだろうか。ある心理学者は、人の人生は出会いで変わると言う。物、人、思想、そして絶対者との出会い。

本論
今日は、イザヤの召命の記事からイザヤが変えられる様子をみたい。
1.危機との出会い(試練との出会い)―イザヤは1章において(今日のテキストの出来事以前に)すでに預言者活動を始めている。つまり、すでに預言者として立てられた器であった。
しかし、6章で召命の記事が記されている。これは、イザヤにとって本当の召命(第二の召命)と言われている。1節にウジヤ王が死んだという記事がある。ウジヤ王は52年間も王として統治していた。その間、国は安定し、経済的繁栄と物質的豊かさを誇っていたのである。しかも、ウジヤ王とイザヤは親戚関係にあったと言われている。だから、イザヤにとって、ウジヤ王の死は、これから国やイザヤ自身に起こる危機を感じさせる出来事、存在の根底が脅かされる危機的体験だったのである。
 人が危機や試練に遭うことは辛くて悲しいことである。しかし、同時にそれらのマイナスと思われる経験は「豊かな成長」に導かれる機会でもある。

2.神の聖なる臨在に触れる―これは言い換えると、神が近づいたと言えるだろう。神がイザヤに近づいて、イザヤは神の臨在に触れた。イザヤは神の臨在に触れ、本当の自分を知った。「もうだめだ」と、自分の存在の醜さを知った。聖なる神の臨在に触れると、人は自らの罪深さに気づき、霊的死を体験するのである。しかし、イザヤは絶望と「霊的死」で終わらなかった。

3.神の使命に与る―神によりセラフィム(天使たち)はイザヤに、罪の赦しのしるしとして祭壇から取った炭火を唇に触れさせる。イザヤはそこで初めて罪が赦されたことを確信する。を与えます。神は新しくされたイザヤに「時代の中に派遣されて行く」という使命を与える。イザヤは「はい、ここにわたしがおります。私をお遣わしください」と応答する。

まとめ:
危機的な体験をし、神の臨在に触れ、神の使命に与ることによって、私たちは新しい生き方へと変えられるのである。私たちも、新しく造り変えられ、神からの使命を与えられてこの時代の中に遣わされて行きたいものである。責任(responsibility)とは応答(response)する能力(ability)のことである!

2009/07/05(日) 「どこまでか」大嶋博道牧師
総員礼拝・聖餐式 (聖書)申命記34:1〜8

序論:
 今日はみ言葉を通して、この世でのあなたの使命は「どこまでか」と言う事について学びます。先ず、モーセの生涯は3つの時期に区分されます。
@「エジプトの王宮で過ごした40年」
A「ミデアンの荒れ野で羊飼いとして過ごした40年」
Bそして「出エジプトから荒れ野の40年」に分ける事が出来ます。
 この120年のモーセの生涯は神の不思議な、素晴らしいみ手に動かされた生涯でした。
 ところで、モーセは神の約束の地に入る事は許されませんでした。目の前に約束の地を見ながらそこに入る事は出来ませんでした。(イスラエルの民で戸籍に登録された 20歳以上の者は、ヨシュアとカレブを除いてだれ一人約束の地に入ることが出来なかったのです。ー民数記14:29〜30参照)それは何故なのでしょうか。

その理由は次の2つがあります。
@モーセは神が聖なるお方である事を示さなかった事がその第1の理由です。出エジプト17章では神が命じられた通り「岩を打った」が民数記20章では「岩に向かって、水を出せと命じなさい」と神が言われていたのにモーセは感情的になって「岩を2度打って」水を出した。則ち神様の命に従わなかったのです。
A申命記34章10〜12節に神がモーセを選び出された理由が書かれているがその事がモーセがエジプトの地に入れなかった第2の理由です。則ち、11節に「…あらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり」12節には「…あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すため」とあるように「モーセの使命はここまでだったのです」(使命の限界)しるしとしての奇跡を行い、あらゆる力ある神の業を示す事がモーセに与えられた使命だったのです。
モーセはネボ山のピスガの頂きで最期を迎えましたが、死ぬまで目はかすまず、気力は萎えてなかったのです。

本論:
この事から次の3つの事を学びます。
@神は私たちの人生の主権を持っておられる方である事 (詩31:15/1テモテ6:15〜16)
A私たちは全力を注いで与えられた使命に生きる存在である事(ロマ12:11〜12)
B神は最善(成功と繁栄)をなしてくださる方である事 (ロマ8:28) 

まとめ:
 私たちの人生の「使命」はどこまでなのでしょうか?ずっと継続したくても、手放さないといけないときが来ます。途中で投げ出したくても継続しないといけない時もあります。
私たちの「時」は神のみ手にあるのです。神の主権に委ねて、今日に全力を傾けて生きるだけで良いのです。神様は私たちの生涯を最善にしてくださいます。


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