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2009/07/19(日)
「イエスの焼き印を心に」大嶋博道牧師
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聖日礼拝 ガラテヤ6:11〜18 序 論: 「焼き印」というのは、当時、羊や時には奴隷などにつけた印である。羊であれば、焼きごてで持ち主の印をつけました。羊が入り混じった場合にも、その焼き印で、羊の所有者がすぐに分かるようにしたわけです。奴隷であれば、刺青によって、主人の印をつけて、誰に所属するかを示したわけです。ですから「焼き印」を身に受けるということは、自分の所有者、主人がだれなのかということが明らかにされたわけです。パウロは「イエスの焼き印を身に受けている」と言いました。
パウロの告白は、 @私の主人はイエス・キリストでる。 A私はイエス・キリストのものである。(イエスに所属するもの・繋がるもの) これはローマ14:8「生きるにしても死ぬにしても私たちは主のもの」というパウロの告白のとおりです。 「焼き印」と訳されたギリシャ語の「スティグマータ」は「焼き印」とか「傷痕」と訳され、所有者を示す図柄や文字が刻まれていました。ではパウロの「イエスの焼き印」とはどんなものだったのか。 (1)パウロの身体には「伝道の労苦の傷跡」が身に刻まれていたという解釈が一般的である。第二コリント11章24節以下にパウロ自身が述べている数々の苦しい経験は、傷跡になって彼の身体に残っていたであろうことは想像できる。 「イエスの焼き印」ということには、さらにもう一つ深い意味がある。 (2)それはイエス・キリストの十字架の贖いの死に対する負い目パウロほど、イエス・キリストの十字架にこだわった人はいないと思われます。 つまり、イエスの十字架の死の意味を「罪のための贖いの死」と位置づけて、そこに私たちの罪からの救いを見出した人です。(ローマ3:23〜24、5:8)
本 論: 「イエスの焼き印を身に帯びた生き方」とはどのような生き方なのでしょうか? (1)洗礼を受けてキリスト者とされたことを「告白的」生きる。 自分がキリストに(教会に)所属していることを告白しながら生活すること。 (2)主の十字架と復活に基づいた信仰生活であること赦された喜び。 復活のいのちに与った感謝と希望の生活をしたいもの。 (3)みことばと祈りと讃美による喜びと感謝の生活 日々、聖書のみ言葉を魂の奥深くに常宿しながら歩むこと。 (4) イエス・キリストを宣べ伝える生活 家族や近隣に伝道することを使命として生きること。 (5)愛の実践を伴う信仰に生きる。(ガラテヤ5:6) 最終的に人を動かすのは神の愛であることを実践をとおして証すること。
まとめ: 今日、私たちのほとんどは、目に見える「焼き印」を身に帯びてはいない。しかし、イエスキリストを信じて洗礼を受けてキリスト者になったこと、この教会に所属して信仰生活をしていること、礼拝、讃美、祈り、奉仕、献身すべてが「イエスの焼き印」を受けたしるしであります。「イエスの焼き印」を身に受けている私たちの人生の最終責任は主イエス・キリストが負って下さることを心から信じて、主に委ねて歩んでいきたい。
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