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2009/07/05(日)
「どこまでか」大嶋博道牧師
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総員礼拝・聖餐式 (聖書)申命記34:1〜8 序論: 今日はみ言葉を通して、この世でのあなたの使命は「どこまでか」と言う事について学びます。先ず、モーセの生涯は3つの時期に区分されます。 @「エジプトの王宮で過ごした40年」 A「ミデアンの荒れ野で羊飼いとして過ごした40年」 Bそして「出エジプトから荒れ野の40年」に分ける事が出来ます。 この120年のモーセの生涯は神の不思議な、素晴らしいみ手に動かされた生涯でした。 ところで、モーセは神の約束の地に入る事は許されませんでした。目の前に約束の地を見ながらそこに入る事は出来ませんでした。(イスラエルの民で戸籍に登録された 20歳以上の者は、ヨシュアとカレブを除いてだれ一人約束の地に入ることが出来なかったのです。ー民数記14:29〜30参照)それは何故なのでしょうか。
その理由は次の2つがあります。 @モーセは神が聖なるお方である事を示さなかった事がその第1の理由です。出エジプト17章では神が命じられた通り「岩を打った」が民数記20章では「岩に向かって、水を出せと命じなさい」と神が言われていたのにモーセは感情的になって「岩を2度打って」水を出した。則ち神様の命に従わなかったのです。 A申命記34章10〜12節に神がモーセを選び出された理由が書かれているがその事がモーセがエジプトの地に入れなかった第2の理由です。則ち、11節に「…あらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり」12節には「…あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すため」とあるように「モーセの使命はここまでだったのです」(使命の限界)しるしとしての奇跡を行い、あらゆる力ある神の業を示す事がモーセに与えられた使命だったのです。 モーセはネボ山のピスガの頂きで最期を迎えましたが、死ぬまで目はかすまず、気力は萎えてなかったのです。
本論: この事から次の3つの事を学びます。 @神は私たちの人生の主権を持っておられる方である事 (詩31:15/1テモテ6:15〜16) A私たちは全力を注いで与えられた使命に生きる存在である事(ロマ12:11〜12) B神は最善(成功と繁栄)をなしてくださる方である事 (ロマ8:28) まとめ: 私たちの人生の「使命」はどこまでなのでしょうか?ずっと継続したくても、手放さないといけないときが来ます。途中で投げ出したくても継続しないといけない時もあります。 私たちの「時」は神のみ手にあるのです。神の主権に委ねて、今日に全力を傾けて生きるだけで良いのです。神様は私たちの生涯を最善にしてくださいます。
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