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2009/08/30(日) 「委ねよ」 大嶋博道牧師
特別礼拝 (聖書)詩編37:1〜6

今日のみ言葉の中心は4〜5節にあります。
 「主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい・・・」
 水野源三の詩に「委ねよ」というのがあります。 
 “あなたの胸にわいてくる。未来に対する心配を 委ねよ、
委ねよ、委ねよ、すべてのことを良きようにしてくださる
  父なるみ神に。・・・”
さて、「委ねる」という言葉にはどんな意味があるのでしょうか。ヘブル語の「シャラク」は「自分の心配を投げ捨てる、自分の不安を神に転がす」と言う意味があります。普段、何も無い時よりも、ギリギリの状態になった時に私たちは「委ねる」ということをするのではないでしょうか。この事から次のような事が言えます。
@自分の領域の事には自分が責任を持ちます。(いえ、持たねばなりません)
A自分の限度を超えて神の領域になったときには、最善をなしてくださる神様にお委ねしなければなりません。

 今朝は「委ねる」ということに関して3つのことを学びたいと思います。
(1)誰に委ねるのでしょうか。それは、私たちの人生を操縦しておられる神様に委ねるのです。使徒言伝20章32節に「神と恵みの言葉とにあなたがたを委ねます。」とある通り、神に委ね、具体的には聖書のみ言葉に委ねるのです。そのためには
日々、聖書に接していなければなりません。聖書の約束の言葉を味わい、み言葉に委ねるのです。

(2)では、何を委ねるのでしょうか。@あなたの「重荷」を委ねるのです。(詩55:23「あなたの重荷を主にゆだねよ」)A自ら(全存在)を委ねるのです。そうすれば主はあなたの心の願いを叶えてくださるのです。(詩37:4「主に自らをゆだねよ、主はあなたの心の願いをかなえてくださる」)
B思い煩いを委ねるのです。(1ペトロ5:7「重い患いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけてくださる。」)

(3)では委ねればどうなるのでしょうか。すでに学んだように、神は心の願いを聞いて
くださり、計らってくださり、心にかけてくださり、「万事が益となる」(ロマ8章28節)ように共に働いてくださるのです。神様に全てを委ねるならば、私たちに最善をなしてくださるのです。 
まとめ:
 私たちは日々の生活の中で委ね切れないことがたくさんあります。自分の領域を超えたことを神様にお任せできないのは私たちの傲慢です。思い上がりです。速やかに、信仰を働かせて神様に委ねましょう。神様は最善をなして下さいます!       

2009/08/23(日) 「目を上げて」脇英親牧師(町田福音センター)
特別伝道礼拝 (聖書)詩編121:1〜8


はじめに:
 ハレルヤという言葉は、我が魂よ、主を誉め讃えよ、目を上げて、主を見上げて、主を誉め讃えよという意味である。聖書は繰り返し「目を上げなさい」と語る。

 創世記23章、アブラハムには100歳まで子どもがいなかった。神様が「あなたに子孫を与える」と約束されたとおり、イサクが生まれる。その大切な一人子を捧げなさいと神様はアブラハムに言われ、アブラハムは従った。捧げようと、刃物を振り下ろそうとしたその時、神様はストップをかけ、アブラハムの信仰を見られた。アブラハムが「目を上げると」(新共同訳では「目をこらすと」)一匹の牡羊が角をひっかけていた。アブラハムは、ヤーウェ・イルエ(主の山に備えあり)と言った。「目を上げた」時に神様の備えに気付いたのである。

 モーセを通して、神様はイスラエルの民に「目を上げなさい」と言われた。エジプトで奴隷として労働を強いられていた民は悲痛な叫びを上げ、神様は出エジプトという大きな業を成された。
しかし、出エジプト後の旅路の中で、イスラエルの民はモーセと神様に不満をもらした。水がないと言う度に、神様は水を与え、食べ物がないと言えば、天からマナを与えた。
それでも民は不満をもらした。民数記21:4、主は炎の蛇を民に送り、神に逆らった者はかまれ、多くの死者が出た。しかし、モーセの執り成しの祈りによって、旗竿の先に掲げた青銅の蛇を仰いだ者はかまれても命を得た。
青銅の蛇とは、十字架を象徴している。それは罪の赦しである。民のような不満を言わなくとも、私たちは心の中で多くの罪を犯す。その罪は小さくとも蛇の毒のように全身を巡って信仰の死へと追いやる。それを救うのはイエス・キリストの十字架である。目を上げ、十字架を仰ぐとき、私たちは罪赦される。

 イエス・キリスト御自身が「目を上げなさい」、「目を上げて畑を見よ、色づいている」と語られる。色づいて刈り入れを待っているのである。私たちは不信仰に成っていないだろうか。この人は救われないと、心の中で思い込んで目を下に向けていないだろうか。
イエス様は、刈り入れを待っている人がいる、と目をその人々に向けている。私たちもイエス様と同じ先を、目を上げて見る必要がある。

 目を上げるとき、私たちは神の備えに気付き、罪の赦しを受け、宣教の使命、神のヴィジョンに立つことができる。今日、信仰の目を上げ、私たち一人一人を愛して止まない神様の愛に触れよう。

2009/08/16(日) 「今、必要なことは何か?」大嶋博道
聖日礼拝 <聖書)ルカ10:38〜42

序 論:
 ルカによる福音書にあるマリヤとマルタの物語を文章通りに読むと、マルタの「この世の働き=接待(ディアコニア)」よりはマリアの「み言葉に聴き入る」事の方が善い事と受け取れますが、この物語の結論はそういう「あれかこれか」の選択の問題ではないのです。
この物語の前に、「善きサマリヤ人の物語」が記されています。
ここでは「愛をもって隣人に仕える事の大切さ」が教えられています。この事からするとマルタの持てなしの行為は決して非難される行為ではありません。また、イエス様は人を比較したり、どちらが善いとか悪いとか言われるようなお方でもありません。

イエス様はマルタに二つの大切なことを伝えました。
@「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」
「多くのことに思い悩み、心を乱している」とはどういう意味でしょうか。「心を乱す」とは「気持ちが四方に分散し、集中できなくなる状態」を指しています。 善意ではじめた奉仕が、人と時間に追われ、一人ではどうにもこうにも手がつけられなくなくる、マルタの心に中にパニックが生じる、このパニック状態を指しています
A「必要なことはただ一つですよ、マリアは良い方を選んだのです。それを彼女から決して取り上げてはいけません。」42節ではマリヤはマリヤにとって「善い部分」を選んだと言うのです。選ばれなかったもう一方が善くない事と言うのではなくて、マリヤにとって善い部分をマリヤ自身が選んだと言う事なのです。
 
本 論:
最も重要な掟についてマルコ12章28節以下でイエス・キリストは「心を尽くし、力を尽くして主なる神を愛しなさい」と述べた後、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。
 私は神を一途に愛することと同時的に隣人を自分のように愛することが求められていると思います。

 マルタとマリアのことに当てはめますと、
「主をこよなく愛する=み言葉に傾聴する」(マリヤ型)と「隣人を自分のようにこよなく愛する=もてなしに集中する」(マルタ型)と言うことになり、この二つは分けて考えることは出来ないのです。表裏一体をなすものです。
わたしたちの生活も、教会での礼拝を大切にする部分と現実のこの世での生活があります
が、これも表裏一体で、決して分けることが出来ません。
 マリヤ型とマルタ型との生き方はどちらも大切で、これらが揃ってこそ、主のみ業が前進するのです。この二つの事は二つの事として選択の対象となるのではなくて、実際は一つの事柄です。主を愛し、隣人を愛する生活でなければなりません。
イエス様がマルタに言われた「必要なただ一つのこと」とは、信仰生活であれ、家庭生活であれ、この世の生活であれ、ひたすら「主の愛の中に生き続けること」なのです。別な言い方をすれば、詩編16:8の「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。(新共同訳)というみ言葉のように、日々の生活の中で、主の顔を実なが
ら生きるということです。
具体的には、@常に祈ること A常にみ言葉に傾聴すること Bデボーションの時を持つこと C家の壁に、台所にみことばを掲げておくこと D折りに触れて、神との交わりの祭壇を築く
E礼拝者として生きること F家族で礼拝の時を持つ(家拝)ことなどでしょう。

まとめ:
どんな時でも、心を乱すことなく、喜びと感謝をもってその仕事に集中したいものです。
 礼拝の時は礼拝に、接待の時は接待に成りきり、集中したいものです。
そして、今何が一番必要なのかを主に向き合いながら選び取りたいものです。そして、選び取った事柄に対する確信と平安を持ち続けたいものです。

2009/08/09(日) 「信じて、備えて待つ」畑中康雄勧士
信徒礼拝 (聖書)ルカ13:6〜9

●このたとえ話は、悔い改めなかったイスラエルに対してエルサレム滅亡を以て示された神の怒りの予告と警告がなされるていると考える事が出来ます。しかしこのみ言葉に接する私たちには、単にイスラエルの運命を語られたと言う事だけではなくて、このみ言葉に接する全ての人々に神の愛の本質を伝えていると言う事を見逃してはならないと思います。主人と園丁の会話は「神の義と神の愛の御心の動き」を巧みに描かれているのです。

●この実らぬいちじくのたとえ話によって示された神の愛こそがイエスが生涯をかけて教えられた福音、神の愛の本質そのものなのです。1年の猶予期間はいつまで延ばされたのでしょうか。「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、1人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたの為に忍耐しておられるのです。」(Uペトロの手紙3章9節)は今なおぶどう園を訪れていちじくの木を見ておられる神のみ心を良く顕しているみ言葉です。

●さてここで大切な事は「待ってください」と言う時に、園丁が言っている大切な言葉がある事を見落としてはならないのです。
則ち、園丁は
@「今年もこのままにしておいておいてください」と先ず主人に自分の願いを口に出して伝えています。そしてそれに続き、
A「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と単に待つだけではなくて待っていただいている間に自分が出来る精一杯の努力をすると言っています。そして
B「そうしたら来年実がなるかもわかりません」と願いが叶う事を信じています。そして、その後で
C「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と期限を切っているのです。

●私たちが待つ時に
@「願いを口にして神様に祈っているでしょうか」
A「必ず成ると信じて待っているでしょうか」
B「待っている間、願いが叶うように最大限の努力をしているでしょうか」
C「そして、その期限が来たときには神様のみ旨のままになさってください」と全てを神様にお委ねしているでしょうか

2009/08/02(日) 「ロトも共に行った」大嶋博道牧師
総員礼拝 <聖書)創世記12:1〜5

序 論: 
ご存じのように、創世記12章からイスラエルの族長、信仰の父アブラハム物語が始まります。聖書を順序よく読んでいきますと、アブラハムと共に「ロト」という名前がしばしば出てきます。ロトはアブラハムの父であるテラの孫に当たります。
最初にロトの名前が登場するのは、創世記11:27です。
11:31でテラは息子アブラハムとその妻サラ、自分の孫であるロトを連れて、カルデアのウルからカナン地方に向かって旅をし、ハランという所で留まることになります。
 創世記12章で、神様はアブラハムに現れ、父と共に留まっていたハランから神様が示す約束の地に出て行くことを命じます。

ここで、私には一つの疑問が浮かんできます。アブラハムはなぜ、甥のロトを連れて行ったのか。聖書にはその理由は記されていません。読者である、私たちが答えを見出さないといけないわけです。
実は、このことは、私たちがこの世を生きる上で、極めて大切な課題です。実は、アブラハムにとって甥のロトは大変な「お荷物」だったと思われます。「お荷物」というのは、 重荷に感じられるもの。負担となるものを意味します。 アブラハムにとってロトは邪魔な存在、負担になる存在。別な言い方をすれば、役に立たず、迷惑な存在でありましょう。
 
しかし、アブラハムはこのようなロトを徹底的に愛し、支え、家族の一員として守り抜きます。
@ソドムから連れ去られたロトの救出(14:13〜16)
Aソドム滅亡の際の執り成し(18:16〜33)。
 これは私の推測ですが、アブラハムがこれほどまでにロトにこだわったのには、一つは、父親のテラが孫であるロトを伴って旅に出たという事実があろうと思われます。
もう一つは、極めてこれは宗教的ですが、アブラハムは、「神の祝福がロトを伴うことによって実現する」ことを確信していたから。 逆に言えば、ロトを見捨て、ロトを排除することによっては「神の祝福」は絶対に実現しないということをアブラハムは固く信じていたからでありましょう。

本 論:
 ここには、私たちの信仰生活にとって、非常に大切な真理が隠されています。
それは、私たちの信仰生活における祝福の旅路には、ロトが必要であること。ロトがいなければ神の豊かな祝福は実現しないのです。
 私たちの信仰生活には、自分の都合の良いものだけを伴うことはできないのです。 いつも喜び、いつも幸せ、いつも楽、いつも思い通りっていうわけにはいかない。
 信仰生活には、呻く(うめ)ような涙の祈りがあり、忍耐強く待ち望むような出来事があり、犠牲を伴う痛みもあります。時には失うことだってあります。
信仰生活において「ロト」は常に伴います。しかし、それが、信仰生活を豊かに導いてくれるのです。信仰生活に充実を与え、大きな祝福をもたらしてくれるのです。
 
今朝のメッセージをまとめますと、
(1)神の祝福の約束を徹底的に信じて、従って歩むこと
(2)その際、アブラハムが荷物になるような甥のロトを伴ったように、私たちも、日々の歩みの中で、「ロトなる存在」を愛し、受け入れ、支え、祝福への旅路に共なるよ
うに配慮すること。言い換えれば、神の祝福は「ロトと共なる歩み」の中に実現することを確信すること。

まとめ:
あなたにとって「ロト」とは、あなたの夫でしょうか?妻でしょうか?あるいは子どもでしょうか?あるいは、あなた自身でしょうか?それともあなたを苦しめる何者かでしょうか?
「アブラハムは主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った」


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