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2009/08/16(日)
「今、必要なことは何か?」大嶋博道
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聖日礼拝 <聖書)ルカ10:38〜42 序 論: ルカによる福音書にあるマリヤとマルタの物語を文章通りに読むと、マルタの「この世の働き=接待(ディアコニア)」よりはマリアの「み言葉に聴き入る」事の方が善い事と受け取れますが、この物語の結論はそういう「あれかこれか」の選択の問題ではないのです。 この物語の前に、「善きサマリヤ人の物語」が記されています。 ここでは「愛をもって隣人に仕える事の大切さ」が教えられています。この事からするとマルタの持てなしの行為は決して非難される行為ではありません。また、イエス様は人を比較したり、どちらが善いとか悪いとか言われるようなお方でもありません。
イエス様はマルタに二つの大切なことを伝えました。 @「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」 「多くのことに思い悩み、心を乱している」とはどういう意味でしょうか。「心を乱す」とは「気持ちが四方に分散し、集中できなくなる状態」を指しています。 善意ではじめた奉仕が、人と時間に追われ、一人ではどうにもこうにも手がつけられなくなくる、マルタの心に中にパニックが生じる、このパニック状態を指しています A「必要なことはただ一つですよ、マリアは良い方を選んだのです。それを彼女から決して取り上げてはいけません。」42節ではマリヤはマリヤにとって「善い部分」を選んだと言うのです。選ばれなかったもう一方が善くない事と言うのではなくて、マリヤにとって善い部分をマリヤ自身が選んだと言う事なのです。 本 論: 最も重要な掟についてマルコ12章28節以下でイエス・キリストは「心を尽くし、力を尽くして主なる神を愛しなさい」と述べた後、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。 私は神を一途に愛することと同時的に隣人を自分のように愛することが求められていると思います。 マルタとマリアのことに当てはめますと、 「主をこよなく愛する=み言葉に傾聴する」(マリヤ型)と「隣人を自分のようにこよなく愛する=もてなしに集中する」(マルタ型)と言うことになり、この二つは分けて考えることは出来ないのです。表裏一体をなすものです。 わたしたちの生活も、教会での礼拝を大切にする部分と現実のこの世での生活があります が、これも表裏一体で、決して分けることが出来ません。 マリヤ型とマルタ型との生き方はどちらも大切で、これらが揃ってこそ、主のみ業が前進するのです。この二つの事は二つの事として選択の対象となるのではなくて、実際は一つの事柄です。主を愛し、隣人を愛する生活でなければなりません。 イエス様がマルタに言われた「必要なただ一つのこと」とは、信仰生活であれ、家庭生活であれ、この世の生活であれ、ひたすら「主の愛の中に生き続けること」なのです。別な言い方をすれば、詩編16:8の「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。(新共同訳)というみ言葉のように、日々の生活の中で、主の顔を実なが ら生きるということです。 具体的には、@常に祈ること A常にみ言葉に傾聴すること Bデボーションの時を持つこと C家の壁に、台所にみことばを掲げておくこと D折りに触れて、神との交わりの祭壇を築く E礼拝者として生きること F家族で礼拝の時を持つ(家拝)ことなどでしょう。 まとめ: どんな時でも、心を乱すことなく、喜びと感謝をもってその仕事に集中したいものです。 礼拝の時は礼拝に、接待の時は接待に成りきり、集中したいものです。 そして、今何が一番必要なのかを主に向き合いながら選び取りたいものです。そして、選び取った事柄に対する確信と平安を持ち続けたいものです。
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