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2009/08/02(日)
「ロトも共に行った」大嶋博道牧師
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総員礼拝 <聖書)創世記12:1〜5 序 論: ご存じのように、創世記12章からイスラエルの族長、信仰の父アブラハム物語が始まります。聖書を順序よく読んでいきますと、アブラハムと共に「ロト」という名前がしばしば出てきます。ロトはアブラハムの父であるテラの孫に当たります。 最初にロトの名前が登場するのは、創世記11:27です。 11:31でテラは息子アブラハムとその妻サラ、自分の孫であるロトを連れて、カルデアのウルからカナン地方に向かって旅をし、ハランという所で留まることになります。 創世記12章で、神様はアブラハムに現れ、父と共に留まっていたハランから神様が示す約束の地に出て行くことを命じます。
ここで、私には一つの疑問が浮かんできます。アブラハムはなぜ、甥のロトを連れて行ったのか。聖書にはその理由は記されていません。読者である、私たちが答えを見出さないといけないわけです。 実は、このことは、私たちがこの世を生きる上で、極めて大切な課題です。実は、アブラハムにとって甥のロトは大変な「お荷物」だったと思われます。「お荷物」というのは、 重荷に感じられるもの。負担となるものを意味します。 アブラハムにとってロトは邪魔な存在、負担になる存在。別な言い方をすれば、役に立たず、迷惑な存在でありましょう。 しかし、アブラハムはこのようなロトを徹底的に愛し、支え、家族の一員として守り抜きます。 @ソドムから連れ去られたロトの救出(14:13〜16) Aソドム滅亡の際の執り成し(18:16〜33)。 これは私の推測ですが、アブラハムがこれほどまでにロトにこだわったのには、一つは、父親のテラが孫であるロトを伴って旅に出たという事実があろうと思われます。 もう一つは、極めてこれは宗教的ですが、アブラハムは、「神の祝福がロトを伴うことによって実現する」ことを確信していたから。 逆に言えば、ロトを見捨て、ロトを排除することによっては「神の祝福」は絶対に実現しないということをアブラハムは固く信じていたからでありましょう。
本 論: ここには、私たちの信仰生活にとって、非常に大切な真理が隠されています。 それは、私たちの信仰生活における祝福の旅路には、ロトが必要であること。ロトがいなければ神の豊かな祝福は実現しないのです。 私たちの信仰生活には、自分の都合の良いものだけを伴うことはできないのです。 いつも喜び、いつも幸せ、いつも楽、いつも思い通りっていうわけにはいかない。 信仰生活には、呻く(うめ)ような涙の祈りがあり、忍耐強く待ち望むような出来事があり、犠牲を伴う痛みもあります。時には失うことだってあります。 信仰生活において「ロト」は常に伴います。しかし、それが、信仰生活を豊かに導いてくれるのです。信仰生活に充実を与え、大きな祝福をもたらしてくれるのです。 今朝のメッセージをまとめますと、 (1)神の祝福の約束を徹底的に信じて、従って歩むこと (2)その際、アブラハムが荷物になるような甥のロトを伴ったように、私たちも、日々の歩みの中で、「ロトなる存在」を愛し、受け入れ、支え、祝福への旅路に共なるよ うに配慮すること。言い換えれば、神の祝福は「ロトと共なる歩み」の中に実現することを確信すること。 まとめ: あなたにとって「ロト」とは、あなたの夫でしょうか?妻でしょうか?あるいは子どもでしょうか?あるいは、あなた自身でしょうか?それともあなたを苦しめる何者かでしょうか? 「アブラハムは主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った」
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