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2009/08/23(日)
「目を上げて」脇英親牧師(町田福音センター)
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特別伝道礼拝 (聖書)詩編121:1〜8
はじめに: ハレルヤという言葉は、我が魂よ、主を誉め讃えよ、目を上げて、主を見上げて、主を誉め讃えよという意味である。聖書は繰り返し「目を上げなさい」と語る。
創世記23章、アブラハムには100歳まで子どもがいなかった。神様が「あなたに子孫を与える」と約束されたとおり、イサクが生まれる。その大切な一人子を捧げなさいと神様はアブラハムに言われ、アブラハムは従った。捧げようと、刃物を振り下ろそうとしたその時、神様はストップをかけ、アブラハムの信仰を見られた。アブラハムが「目を上げると」(新共同訳では「目をこらすと」)一匹の牡羊が角をひっかけていた。アブラハムは、ヤーウェ・イルエ(主の山に備えあり)と言った。「目を上げた」時に神様の備えに気付いたのである。
モーセを通して、神様はイスラエルの民に「目を上げなさい」と言われた。エジプトで奴隷として労働を強いられていた民は悲痛な叫びを上げ、神様は出エジプトという大きな業を成された。 しかし、出エジプト後の旅路の中で、イスラエルの民はモーセと神様に不満をもらした。水がないと言う度に、神様は水を与え、食べ物がないと言えば、天からマナを与えた。 それでも民は不満をもらした。民数記21:4、主は炎の蛇を民に送り、神に逆らった者はかまれ、多くの死者が出た。しかし、モーセの執り成しの祈りによって、旗竿の先に掲げた青銅の蛇を仰いだ者はかまれても命を得た。 青銅の蛇とは、十字架を象徴している。それは罪の赦しである。民のような不満を言わなくとも、私たちは心の中で多くの罪を犯す。その罪は小さくとも蛇の毒のように全身を巡って信仰の死へと追いやる。それを救うのはイエス・キリストの十字架である。目を上げ、十字架を仰ぐとき、私たちは罪赦される。
イエス・キリスト御自身が「目を上げなさい」、「目を上げて畑を見よ、色づいている」と語られる。色づいて刈り入れを待っているのである。私たちは不信仰に成っていないだろうか。この人は救われないと、心の中で思い込んで目を下に向けていないだろうか。 イエス様は、刈り入れを待っている人がいる、と目をその人々に向けている。私たちもイエス様と同じ先を、目を上げて見る必要がある。
目を上げるとき、私たちは神の備えに気付き、罪の赦しを受け、宣教の使命、神のヴィジョンに立つことができる。今日、信仰の目を上げ、私たち一人一人を愛して止まない神様の愛に触れよう。
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