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最新の絵日記ダイジェスト
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2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
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2009/09/27(日) 「ダビデの転機」〜主よ、私を憐れんでください西脇衛士勧士 
 フレンズサンデー信徒礼拝 (聖書)詩編51:1〜11 
(序論) 
 信仰が成長していくためには超えなければならないハードルがあります。それは「悔い改める」ということです。
(本論) 
 今日の聖書は「悔い改めの詩編」といわれます。「悔い改める」とはどういう事でしょうか。辞書には「悪事や過失を悔いて善に向かう」とあります。今まで犯した事を反省し、心を改めて、善人になったりすると、あの人は悔い改めた、と言います。しかし聖書が教える「悔い改め」はこれらのものとは違います。「悔い改める」という言葉はヘブル語では「帰る。今までのものから離れて出発点に立ち戻る」という意味がある【シューブ】と言う言葉が使われています。「今までのものから離れて出発点に立ち戻る」ことが「悔い改める」と言うことだと聖書は教えて
います。
 では、「今までのもの」と「出発点」とはどこでしょうか。「今までのもの」とは、神様に対して罪を犯してきたことです。そして出発点とは神様のもとです。
 ダビデは幼い時に神に選ばれ、イスラエルの王として順調に成長していきます。しかし、王となったダビデの心に隙が出来たのです。それは姦淫と殺人の罪です。その罪を預言者に指摘されます。しかし彼は何の言い訳もせず、自分の罪と向き合います。この詩編はその時のダビデの心の苦しみを読んだものです。

 罪のことはあまり聞きたくありません。人間は弱いものだから罪を犯しても仕方がないと諦め、開き直っていないでしょうか。罪は神から離れていることです。
150年前に来た宣教師達は日本に福音を持って来ました。その福音とは真の神が居ますことと、その神に対して犯している罪からの解放(赦し)の恵みの事です。 
 ではこの解決はどこにあるのでしょうか。そのヒントが放蕩息子のたとえの中にあります。父から離れ、罪の生活の中で苦しんだ彼は「我に返っていった。・・そうだここをたち(離れ)、父のところにいって(帰って)・・」これが悔い改めではないでしょうか。そして自分の罪を告白(ホモロゲオー=同じ事を言う。言い訳しない)したのです。父は彼を赦し、全てを回復されました。

 ダビデもまた罪赦された喜びを詩編32:1〜「いかに幸いなことか。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」と告白しています。「わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように」詩編19の14とあります。たとえどんな小さな罪であっても、即座に主の前に持ち出し、悔い改めましょう。そして十字架を仰ぎ見て罪の赦しを確信しましょう。「ダビデの転機」を私の転機としましょう。

(結論) 
日々主の前に出て、悔いあらための生活こそ、私たちの信仰を成長させるものです。なぜなら悔い改めこそ人を真に謙りくだらせ、新しくするからです。
そのためにイエス様はいつもあなたを待っておられます。

2009/09/20(日) 「我らは神の中に生き、動き、存在する」竹ノ内進牧師
 献堂13周年記念礼拝(聖書)使徒言行録17:22〜28

献堂13周年を迎えられ、心からお祝い申し上げます。
日本は昔から神々の住む国と言われ、至る所に神社やお寺があり、大木や大岩など含め“八百万の神”が信仰されている。実に不思議な国である。
さて、今日のテキストには、パウロが偶像の町アテネを訪れて哲学者や宗教家たちと対話することが記されている。当時、アテネには“知られざる神に”と刻まれた祭壇があり、パウロは憤慨の中で、天地万物を創造された真の神を人々に紹介するのである。

 ところで、どの宗教においても一つの基準が求められる。
1.何を神とするか(神観、神論)
2.どのように人を救うか(救済論)
3.どんなご利益があるか(祝福)
4.死後どうなるか(未来、終末)
これらの問いに、聖書ははっきりと答えることが出来るのである。

 まず、何を神とするか?であるが、聖書は明確に、神は唯一である、霊なるお方であると述べている。そして天地万物を創造し、人間を神の像に似せて造られた真の生ける神と述べている。そして、この世界を支配し、人間をこよなく愛しておられるのである。

次に、どのようにして救うのか?キリスト教はイエス・キリストが人類の罪のために十字架に架かって贖いの死を遂げて下さることにより私たちの滅ぶべき罪が赦され、神の子とされ、信じるすべての者に永遠のいのちを与え、豊かな祝福に与らせてくださるのである。 

さらに、どんなご利益があるか?キリスト教は前述のように、信じるすべての者の罪を赦し、霊的ないのちを与え、神の子として下さること、さらに喜びや平安や希望を満たしてくださること。具体的には、病気に耐える力を与え、病を癒し、生活に必要なものを備え、家庭を豊かな愛で満たして下さるのである。私たちが生きていく力を備えて下さる。

最後に、死後のことであるが、この世は一時的、私たちは地上の旅人である。この世の生涯が終わったら、からだは地に葬られ、土に帰るが、霊においては神が待っておられる天の永遠の住まい(天国)に携え挙げられるのである。「私たちの国籍は天にある」(フィリピ3:21)これこそ聖書の約束である。
 
まとめ:
「我らは神の中に生き、動き、存在する」とパウロはギリシャの詩人アラートスの言葉を引用して述べたが、まさに、私たちの人生は、信仰によって神と共なる祝福の人生である。
神の中に生き、動き、存在するのである。そこに幸いが存在する。このお方に拠り頼み、このお方を人々に証ししながら歩みたいものである。

2009/09/13(日) 「神はわたしの避けどころ」大嶋博道牧師
高齢者祝福礼拝 (聖書)詩編46:1〜12

聖書の中で、特に詩編には「避けどころ」「砦」「岩」という言葉がよく使われる。(62:2、3、8など。特にサムエル記下 22:2、3には、サウルの手から神がダビデを救い出されたことに対して、ダビデが歌った感謝の歌に、「主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。」と連記される)
この「避けどころ」という単語はヘブル語で「マハセー」で、避けどころ、避難所、隠れ家、要塞、安全地帯と訳すことが出来る。この詩編46篇は、様々な試練や困難に直面した詩人が神に信頼し、すべてを委ねた結果、体験したことを歌ったものである。

1.「神はわたしの避けどころ」とする信仰とはどういったものだろうか。
@神を第一とする信仰
 この方以外に救いはない。 神第一とすることに関して、故 畑野忍牧師は、生涯の中で、「常に神と向き合って生きる」生き 方であると語った。ディボーション、礼拝、祈りを通して、職 場、家庭、社会にあって、常に神と正面から向き合い、豊かな 深い交わりを持つのである。
A臨在信仰に生きる
 聖書の神は「共におられる神」である。神はその存在をいかなる時にも明らかに示して下さる。(イザヤ41:10)
畑野忍先生は「神が共におられる(インマヌエル)臨在信仰と は、私と神との極めて正確な霊的距離を保つということ、そし て、その距離に自分を置くということである。」と述べておら れる。私たちが神から離れると神がボヤけてしまう。
はっきりと神が見える明瞭なポイントに自分を置くことが大切 である。

2.では、神を避けどころとする人生には何がもたらされるのか?
@私たちは決して恐れない。(46:3)
 まず、恐れが取り除かれるということである。詩編46:11に「力を捨てよ」とある。私たちには恐れがある。失敗しては いけないと、力を入れて生きている。神様を明瞭に見て生きる 時、私たちは恐れから解放され、力を抜いて生きることが出来 る。(イザヤ41:10,13 43:1)
Aわたしは決して動揺しない(62:3)
 私たちの心はしばしば動揺する。しかし、神を避けどころとすると、動揺がなくなり、平安が訪れ、明日への希望が与えられ るのである。(ヨハネ14:27)

 新聖歌209にある「いつくしみ深き」の作詞者Joseph Scrivenは、結婚式の前日に婚約者を海で亡くした。彼の母は、婚約者の女性を愛していたため、深く悲しむ。また、彼自身も深い悲しみを味わう中でこの詩を書いた。「イエスは慈しみ深い友」なのである。
 神様を避けどころ、砦、隠れ家、安全地帯とする信仰者は幸いである。どのような時にも慰めと平安が与えられ、強く生きることが出来るのである。

2009/09/06(日) 「全き愛に満たされて」大嶋博道
総員礼拝・聖餐式 (聖書)1ヨハネ4:7〜21

はじめに:
 今年はプロテスタント日本宣教開始150周年を迎える。このような節目の時に、私たちの日本フリーメソジスト教団は「全き愛から更なる宣教へ」という教団標語を掲げた。この「全き愛」は、私たちの信仰生活の中で生涯追い続けるべき課題であり、また、キリスト者が信仰生活の中で目指すべき、そして到達すべき「恵みの高嶺」なのである。この「全き愛」は、家庭、生活、社会、国の形成の土台であり、また、宣教の原動力である。

 「全き愛」とは、ジョン・ウェスレーが自らの生涯の中でしばしば強調した「キリスト者の完全」の実質(本質)である。このキリスト者の完全を、ウェスレーは「メソジスト教徒と呼ばれている人々に、神が託された偉大な宝(寄託物)と述べている。
 「全き愛」とは、元来、Tヨハネ4:15−17に記されていて、神と人との関係における完全、すなわち、完全な交わりを意味している。「全き愛」は、「動機の純粋さ」を意味する言葉として用いられ、神に向かって生きるキリスト者の一心さを表す。

 スエーデンの神学者リンドシュトレームによれば、「全き愛」は
@意向の純粋-神に向けられたひたむきなまなざし 
Aキリストへの模倣-キリストが生きたように生きる 
B神と我々の隣人への愛、全き、脇目もふらない愛(全存在をかけた愛)の3つに分けられる。

 「全き愛」は聖書ではTヨハネ4:18に見られる。(本日のテキスト)また、「全き愛」は、ヨハネ13:1以降、イエスが十字架を目前にして弟子たちを「……この上なく愛し抜かれた(極みまで愛された)」という主イエスの姿に見られる。
この弟子たちは、裏切るもの、そして、逮捕の時、イエスを置いて逃げる者であった。イエスはそれを知りながらも、弟子たちを愛された。極みまでの愛は、そのあとに記されている「洗足」に具体的に見ることができる。この「洗足」こそ、キリスト者の愛の完全、「全き愛」の姿なのである。「全き愛」とは、このように、仕える愛、徹底的にへりくだった愛なのである。
 
 では、今なぜ「全き愛」なのか。それは、「全き愛」だけが、人を動かすことができ、人を変えることができるから。そして、この「全き愛」こそが福音宣教の原動力だからである。
この「全き愛」に満たされるためには、
@イエス・キリストの十字架の贖いの御業に立ち返る 
A罪が赦され、神の子とされたことを確認する 
B日々、私たちを新しく造りかえてくださる聖霊を祈り求める
C礼拝を重んじ、日々のディボーションを通して「祈りと聖書の御言葉への傾聴」の時をもつ。(ウエスレーは「一書の人」と言われている。)
 私たち一人一人が「全き愛に満たされる」こと、これが宣教の原動力となり、家族や近隣との平和、日本や世界の平和を生み出す原動力となるのである。「全き愛」に満たされて、一途に宣教の業に励みたいものである。


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