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2009/09/06(日) 「全き愛に満たされて」大嶋博道
総員礼拝・聖餐式 (聖書)1ヨハネ4:7〜21

はじめに:
 今年はプロテスタント日本宣教開始150周年を迎える。このような節目の時に、私たちの日本フリーメソジスト教団は「全き愛から更なる宣教へ」という教団標語を掲げた。この「全き愛」は、私たちの信仰生活の中で生涯追い続けるべき課題であり、また、キリスト者が信仰生活の中で目指すべき、そして到達すべき「恵みの高嶺」なのである。この「全き愛」は、家庭、生活、社会、国の形成の土台であり、また、宣教の原動力である。

 「全き愛」とは、ジョン・ウェスレーが自らの生涯の中でしばしば強調した「キリスト者の完全」の実質(本質)である。このキリスト者の完全を、ウェスレーは「メソジスト教徒と呼ばれている人々に、神が託された偉大な宝(寄託物)と述べている。
 「全き愛」とは、元来、Tヨハネ4:15−17に記されていて、神と人との関係における完全、すなわち、完全な交わりを意味している。「全き愛」は、「動機の純粋さ」を意味する言葉として用いられ、神に向かって生きるキリスト者の一心さを表す。

 スエーデンの神学者リンドシュトレームによれば、「全き愛」は
@意向の純粋-神に向けられたひたむきなまなざし 
Aキリストへの模倣-キリストが生きたように生きる 
B神と我々の隣人への愛、全き、脇目もふらない愛(全存在をかけた愛)の3つに分けられる。

 「全き愛」は聖書ではTヨハネ4:18に見られる。(本日のテキスト)また、「全き愛」は、ヨハネ13:1以降、イエスが十字架を目前にして弟子たちを「……この上なく愛し抜かれた(極みまで愛された)」という主イエスの姿に見られる。
この弟子たちは、裏切るもの、そして、逮捕の時、イエスを置いて逃げる者であった。イエスはそれを知りながらも、弟子たちを愛された。極みまでの愛は、そのあとに記されている「洗足」に具体的に見ることができる。この「洗足」こそ、キリスト者の愛の完全、「全き愛」の姿なのである。「全き愛」とは、このように、仕える愛、徹底的にへりくだった愛なのである。
 
 では、今なぜ「全き愛」なのか。それは、「全き愛」だけが、人を動かすことができ、人を変えることができるから。そして、この「全き愛」こそが福音宣教の原動力だからである。
この「全き愛」に満たされるためには、
@イエス・キリストの十字架の贖いの御業に立ち返る 
A罪が赦され、神の子とされたことを確認する 
B日々、私たちを新しく造りかえてくださる聖霊を祈り求める
C礼拝を重んじ、日々のディボーションを通して「祈りと聖書の御言葉への傾聴」の時をもつ。(ウエスレーは「一書の人」と言われている。)
 私たち一人一人が「全き愛に満たされる」こと、これが宣教の原動力となり、家族や近隣との平和、日本や世界の平和を生み出す原動力となるのである。「全き愛」に満たされて、一途に宣教の業に励みたいものである。


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