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最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2010/01/31(日) 「神には負けるが勝ち」石黒則年牧師
特別礼拝 (聖書)創世記32:23〜32

今日の聖書の箇所は「ペヌエルでの格闘」と言う表題がついている有名な箇所です。
ヤコブが「ヤボクの渡し」を渡ったときに経験した神との争いが記されています。この箇所から1つの大切な事を学びます。
 
 ヤコブは生まれた時に兄エサウの踵(かかと)を掴んでいたので「彼は掴んでいる」と言う意味で「ヤアコープ」と名付けられました。それはまさしくヤコブの人生を凝縮した名前てした。ヤコブは兄との争いからハランの地に逃亡します。そして数十年経ってヤコブはエサウとの再会に向かおうとします。そのためにヤコブは先ずエサウへ多くの贈り物を贈り、次に2人の女奴隷を行かせ、そして11人の子ども達を送り、自分は「ヤボクの渡し場」に残ります。そこで「ある人」との格闘が始まります。
なかなか勝負がつかなかったのですが、最後には腿の間接を強打され、「その人」の勝ちとなります。しかしながら「その人」はヤコブが勝ったと言います。そしてヤコブにこれ
からは「イスラエル」と名乗るように言われます。それは「神は勝ち抜いた」と言う意味があります。

 格闘した相手に実際には負けているのに相手の人は「勝った」と言われます。それは「良く戦った」と言う事を言われたのでしょう。ここではヤコブが負けたことに意味があります。ヤコブの人生は悪知恵と偽りと不誠実でここまで生きてきていました。一度も負けを経験せず、人を押しのけ、だまし、その名のごとく人の踵を掴み、引っ張り倒し利益を自分のものにしてきたのです。しかしここでヤコブは「負ける」事を経験しています。
それが彼には必要だったのです。それが彼の人生を変えました。その事によってヤコブは「祝福してください」と頼みます。

 私が最近読んだ本(山上の煙:十戒をめぐる考察(新教出版社)著ジョイ・デビットマン)の前書きに「すべての回心が祝福された敗北の物語であることは言うまでもないからだ」と書いてありました。人は敗北する事なしには本物のクリスチャンになり得ません。神に負けてこそ本物のクリスチャンになれるのです。どうか神が私たちにも「神に負かされる」と言う「祝福された敗北」を証しさせてくださるように祈り求めましょう。    

2010/01/24(日) 「この岩の上に教会を建てる」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝 (聖書)マタイ16:13〜20

はじめに:
今朝のメッセージのテーマは「私たちの教会はどこに立つのか」ということである。「どこに」とは、どの信仰に、何を土台としての意味である。クリスチャンにとっては極めて大切な関心事である。いったい、私たちはどこに寄って立っているのだろうか。
序 論:
 15、16節が今日の中心である。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」イエス様はフィリポ・カイザリヤに行かれた。この地方はガリラヤから北に約18km上った所にあり、「カイサリヤ」の名前の通り、ローマ皇帝「カエサル」を崇拝する町であった。その町でイエス様は「人々はわたしを何者だと言っているか」と弟子たちに尋ねられた。弟子たちは「人々は洗礼者ヨハネだとか、エリヤ、エレミヤなどの預言者の一人だと言ってる」と答えた。この答えからわかるように、人々はイエスはただ者ではないと感じていたようだ。

 イエス様は、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われた。聖書の中では他に、創世記3:9に神の前から隠れたアダムに神は「あなたはどこにいるのか」と問われ、創世記4:9に弟アベルを殺したカインに神は、「あなたの弟はどこにいるのか」と問われた。聖書は、私たちに度々問いかけている。クリスチャンは「あなたはわたしを何者だと言うのか」というイエス様の問いかけに常に立たされているのである。

本 論: 
 ペトロは弟子を代表してこの問いに答え、「あなたはメシヤ、生ける神の子です」と告白した。これは、「あなたはわたしの救い主」という告白である。クリスチャンであるという事は、私たちの全存在をかけて、イエスは主であると公に言い表すこと(告白すること)である。イエス様はペトロに、
@「あなたは幸いだ。」と言われた。幸いとは〔マカリオス=祝福〕の意味である。
A「この岩の上に教会を建てる。」と言われた。イエス様はシモン・バルナバにペトロ(岩の意味)というあだ名を付けられていた。教会は砂の上ではなく、しっかりとした岩(ペトロ)の上に立つのであり、ペトロが告白したその信仰の上に立つのである。
教会とは何だろうか。ルターやカルヴァンら宗教改革者は、
1.神の言葉である説教が正しく語られ、正しく聴かれる場、
2.正しく聖餐の養いが行わ
れている場、それに加え、
3.信仰の証、すなわち主にある愛の交わりがある場。これが教
会の姿である。
 18節「陰府の力もこれに対抗できない」、これは、私たちが主を告白するとき、この社会にはびこる、生きる力が萎えたり、命が粗末にされる死の力に支配されないということ。主イエスは、こういった力に屈しないという宣言をされた。

 19節は、様々に議論される。カトリックはペトロが鍵を持っているとしているが、そうではなく、このペトロの信仰が鍵を持っているのではないだろうか。つまり、主を告白する一人一人
に主は天国を保証してくださる。そう信じるのである。「あなたはわたしを何者だと言うのか」
私たちは常に問われている。これに答える中に私たちの人生の祝福があり、死が支配している社会の中で屈することなく力強く歩むことが出来るのである。(祈祝福)

2010/01/17(日) 「みことばに生かされて」〜祈りと証しの生活 大嶋博道
聖日礼拝 (聖書)ローマ12:9〜21

はじめに: 
 2010年、今年の教会標語は「みことばに生かされて〜祈りと証しの生活」である。
私たちクリスチャンにとって、「みことばに生かされる」ことは信仰生活の基本であり、まさに基軸である。Tペトロ2:2で、クリスチャンは「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求める存在である」と言及し、詩編119:105では、「あなたの御言葉はわたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」と告白している。

序 論:
 J.ウェスレーは、聖書の言葉を、「あなたがたの内に宿らせよ」と勧めている。時々思い出したりするということではなく、「常宿」させなさいと言う。常に御言葉が共にあり、私たちの「いのちの言葉」として全身に充満するようにと述べている。また、「みことばに生かされる」ことによって成長が得られる。現代社会において、閉塞感、景気低迷など、社会を暗雲が覆っている。それは教会の中にも入り込んできており、信徒の「霊性」の低下が起きている。このような時代だからこそ、私たちは霊的目をしっかりと開き、神の臨在、聖霊の働きを感じなければならない。みことばに従って神が求めている「聖なる生活」をするためにどうしたらよいのか。私たち自ら信仰生活の中で探し、答えを見出さなければならない。
 また、「みことばに生かされる」ことは、伝道の使命に燃えて歩むために必要である。伝道は、私たちを通してなされる。つまり、神の言葉の素晴らしさを伝える私たちが、まず神の言葉に真に満たされ、喜びをもって実践している必要がある。そのために、私たちは日々祈り、デボーションを通して神のみことばをいただく必要がある。

本 論:
 みことばに生かされることとはどういうことなのか。
(1)みことばが私たちの信仰を確立し、育む「糧」となる―みことばに生かされることによって、私たちの信仰が確かなものとされ、そしてみことばが、さらなる信仰の深みに成長していくための「規範」であり、「糧」となる。
(2)みことばが私たちの生きる動機を与え、進むべき道を示し、ゴールとなる―神は、人が生活の中で神の栄光を顕すために人を創造された。パウロは、ローマ14:8、フィリピ1:21、ガラテヤ2:20などで、自らの人生観を、「主のために生き、主のために死ぬ。わたしたちは主のものである」と告白している。
(3)みことばが私たちの人生の決定的な「節目」を支え、健全に導く―私たちの人生に、幾度か大きな節目がある。私たちは、みことばを通して、神の御旨、神が求めておられることを正確に受け取らねばならない。

 みことばに生かされるとどうなるのか。
1.その生涯は豊かに祝福される―キリスト教は決してご利益を強調する宗教ではない。クリスチャンといえど、時に大きな苦しみ、悲しみがある。しかし、神は私たちに大いなる豊かな祝福を約束されている。
2.他者への愛のわざが始まる―キリストにあって新しく造りかえられた者であるクリスチャンは、他者に対して、大きな影響を与える存在となる。伝道とは、他者に対する謙った愛と真実な奉仕に裏付けられた影響力である。

 日々みことばに養われ、祈りを通して神と深く交わる生活の中で、信仰は成長し、証しの生活へと導かれる。みことばに生かされている人は、今日か、明日かわからないが、必ず奇跡が起こる.

2010/01/10(日) 「幸いの秘訣〜イエスの逆説に学ぶ」大嶋博道牧師
新成人祝福礼拝 (聖書)マタイ5:3〜12(ルカ6:20〜26)

序 論:
 今朝は、改めて「幸い=幸福とは何か、どんな状態なのか」を聖書から学びたい。
マタイ5章3節から12節までは、小高い丘の上で語られた「山上の説教(垂訓)」の一部で、特に大切な教えである。
 
古代より、人々は「幸せ」になる方法を探し求め、神学者、宗教者、哲学者、心理学者などが幸福について論じてきた。アランの幸福論は、健全な身体にその人の幸せが宿ると教える。ラッセルの幸福論は、他者のために働く生き方の中に幸せが宿ると教える。カール・ヒルティーの幸福論は、神がそばにいることが永遠の幸せをもたらすと教える。
 
インドでは幸せとは“Good Condition”すなわち、良い状態を意味する。殆どの日本人は、その人が望んでいるもの、欲しているものが手に入った時の状態が幸せであると考えている。いったい、金銭やモノや環境が整い、自分の思い通りになることが本当の幸せだろうか。もちろん、これらも幸せと感じるための一部を形作っていることは確かである。しかし、それだけではなく、将来への夢や希望、喜びや平安、真実な人間関係、温かい家族の絆や団らんなども幸せの姿であろう。「幸せ」とはとても広く、とても深いものである。
 
日本は平和で経済的に豊かで、医療、福祉、教育においても恵まれており、殆どの人が衣食住に事欠くことがない。しかし、なぜか私たちの心には閉塞感や空虚感、不安感や孤独感が支配している。

本 論:
マタイ5:3〜12の平行記事のルカ6:20〜26では、「幸いと不幸」という小見出しで言及されており、特に「貧しい人は幸い」「飢えている人は幸い」と記されている。イエスのこれらの教えは、表面的には矛盾している。貧しく、飢え、泣いている人が幸せなはずがない。しかし、このイエスの教えを深く味わう時に、人間の真の幸いの姿が浮き彫りにされている。「幸い」と訳されたギリシャ語“μακαριοι(マカリオイ)”は、「祝福されている」と訳す。天の国があなたのために備えられている!今辛くても、祝福が待っているという神様からの愛のメッセージである。
自分の中に自分を生かす何ものもない人は、謙虚になって主により頼んで、謙(へりくだ)って信仰に生きる。目に見える豊かさを誇る人よりは、何も持たないで貧しく謙虚に生きる人の中に、他人の弱さや痛みに共感したり寄り添って生きようとする優しさや思いやりが生まれるものである。そういう人こそ神に祝福されるべき人であり、天の国は与えられる。この逆説に真の「幸い(祝福)」が存在するのである。

 改めて、「幸いの姿」を確認しておきたい。
(1)ローマ8:28―神は万事を益としてくださる。病をも神は益と変えてくださる。
(2)フィリピ4:6〜7―神に全てを明け渡すならば神はすべてを備えてくださる。
(3)ヨブ記1:21―「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」とヨブは告白した。 いついかなる状況においても主を賛美できること、これこそが真の「幸い」である。

2010/01/03(日) 「主のまなざしが注がれて」大嶋博道牧師
新年礼拝 (聖書)申命記11:8〜12

はじめに:
 改めて新しい年を心からお祝い申し上げます。「おめでとうございます」皆様の上に、今年も神様の祝福が豊かにありますようにお祈り致します。
序 論:
 新しい年の初めには申命記11:12のみことばがよく開かれる。それは一年の歩みを始める私たちにとって最も希望に満たされる聖書の約束だからである。今年1年も主は温かいまなざしを注いでくださっている。これを信仰によって感じとろう。
これが今日の結論である。
 11:8のわたしが今日命じる戒めとは、10:12に言及されている。つまり、全力を注いで主である神を愛し仕えること。その結果、11:8の続き、勇ましくなり、約束の地に入ることができる。その地は、「乳と蜜が流れる土地」であるり、乳とは牛や山羊などの乳であり、蜜とは草花から得られるものである。
つまり、イスラエルの民が入る土地は神のご配慮の中ですばらしく潤ったところなのである。
 約束の地に対して、エジプトの土地が比較される。エジプトにはナイル川があり、その川から水路をひき、種に水をやり、草木は生い茂る。しかし、これは人の手によるもの、人間的手段である。約束の地はそうではない。川はなく、山や谷がある荒れ地である。
そこはただ天からの雨によってのみ潤う。つまり聖書が語っているのは、人の手で努力しても何も得れない土地であるが、「神の目」がそこに常に注がれており、乳と蜜が流れる土地である。
本 論:
 目を注ぐとは、思いを寄せること。関心を持ち、全存在を傾けて関わることである。この主のまなざしとは一体どのようなものだろうか。
1.神は私たちの必要をよくご存知で、備えておられる―配慮のまなざし
 主は私たちのことをよく知っておられる。「知る」ということは関心を持ち、思いを寄せるということ。主は私たちの必要をご存じで、必要な時に、最善の方法で与えてくださる。
Tペトロ5:7にあるように、私たちは何もかも神にお任せして信仰によって生きたいものである。

2.私を宝の民として見ておられる―愛のまなざし
イザヤ43:4に「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と主が言われた言葉がある。生物学者ルイス・トーマスは、「人は壊れやすい」と語る。聖書も「人は草のようである」と言及している。(Tペトロ1:23参照)しかし、主はそのような小さく、弱い存在である「わたし」を愛し、「宝の民」とされた。(申命記7:6)

3.主は私たちを見守っておられる―保護のまなざし
詩編121篇に、「主は見守る」という言葉が何度も記されている。主なる神は私たちを決してまどろむことなく、常に見守っていてくださる。
 
まとめ:
 申命記11:14には具体的な主の約束が記されていることを覚えたい。主は常に私たちに目を注いでくださっている。年の初めから終わりまで常にである。今年一年も、この主の約束に堅く立って希望を持って歩んで行きたい。


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