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最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2010/10/31(日) 「一人の子どもの箱舟」リンダ・アダムス先生
チャイルドケア20周年記念特別礼拝 (聖書)マタイ18:1〜14

(インターナショナルチャイルドケアミニストリー総主事Linda Adams先生を迎えて)
子どものようにならなければ天のみ国には・・・
 私たちは富や財産、高学歴、社会的地位のある人を「Bigな存在=価値ある人」と思っている。イエスの時代の弟子たちも同様で、「天国では誰が一番偉いのか」とイエスに尋ねた。
ところが、イエスは「子どものようにならなければ、決して天のみ国に入ることは出来ない」と言われた。当時の宗教的指導者たちも同様で、立派な行いこそ神を喜ばせ、神の慈愛を得られると思っていたが、イエスは子どものように謙虚になることを強調された。価値観の大転換である。

イエスの子どもへの接し方
 イエスは小さく弱い存在である子どもを愛され、また自分自身と同一視され、「子どもを罪に陥れる者は死んだ方がましである」とも言われた。子どもを取り巻く社会の環境は決してよくない。暴力、盗み、偽善、性風俗など、子どもの心身や魂を傷つけるものがまん延している。大人たちは深い反省をしなければならない。私たちは彼らに健全に成長するために安全な場所を提供したい。

モーセの成長に見る神のご配慮
エジプトで奴隷の子として生まれたモーセは、パロの権力により、「籠」に入れられてナイル川に捨てられ、パロの娘に拾われ、実母に育てられ、やがて王宮に迎えられてパロに継ぐ地位に就いた。神はその時々に助産師、モーセの家族、パロの娘などを用いて神の聖なるご計画を成し遂げられたのである。皮肉なことに、結局、モーセを養育したのはパロ王であったと言える。
神は聖なる働きのために大人でなく、赤ん坊をエジプトに遣わされたのあった。

 日本におけるチャイルドケア20周年に感謝
 この20年間、チャイルドケアの働きを支援して下さり、心から感謝したい。今も、この世界は子どもたちにとって安全な場所とは言えない。食糧不足で餓死する子ども、汚染された水など衛生環境は悪く、強制労働、戦争にかり出される子ども、売春させられる子ども、極貧の中で冷遇されている。
 子どもたちの生活環境を整え、学校に通わせるために、今、世界のフリーメソジスト教会は援助の手を差し伸べている。

まとめ:
 モーセは成長して偉大な解放者になり、神の人になった。神は彼をイスラエルの人々を奴隷のくびきから解放するためにも用いられたのである。チャイルドケアで支援を受けた子どもたちの
多くが成長して、教会や社会や国において神の栄光を現す素晴らしい信仰の指導者になって活躍している。
私はチャイルドケアの働きを、モーセが入れられていた「籠=箱舟」とみなしている。その籠の中にどんな子どもが入れられているのか、誰も知るすべがない。ただ、信頼し、期待して支援し続けたいと心から願っている。

2010/10/24(日) 「あなたの“この時”のために」大嶋博道牧師
フレンズサンデー礼拝 (聖書)エステル記4:1〜17

(物語のあらすじ)
 今日のメッセージのポイントは14節の「この時のためにこそ」と言うみ言葉にあります。
紀元前586年頃、南王国のユダはバビロンに侵略され、廃墟となり、主な人々は捕囚人として連行されました。が、ペルシャのキュロス王によって紀元前538年頃解放されます。しかし、バビロンに残ったユダヤ人もあり、その中にモルデカイやエステルがいました。
 その頃、クセルクセス王はハマンを高い地位につけ、人々に対して彼にひざまずいて敬礼するように命じた。しかし、真の神を信じていたモルデカイだけは決してそうしなかった。
それで、ハマンはモルデカイだけでなく、ユダヤ人を皆、滅ぼそうと企てた。 モルデカイはエステルこの命令を廃止するよう王に伝えてくれと頼みました。しかしエステルはこれを躊躇したのです。この時にモルデカイが言った言葉が14節の「…この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」と言う言葉です。
それに対してエステルは「…私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でいます。」と言います。 
 この物語から、「この時のためにこそ」過去のあの出来事があったということ、さらに今の様々な出来事は、将来「この時のためにあのようなことがあったのだ」と、理解出来る日がくることを学びたい。

 (わたしたちの「この時」の生き方)
@私たちの人生には「この時のためと言う決定的な時」があります。時には「クロノスの時」(日常的な時、繰り返される平凡な時)と「カイロスの時」(非日常の時、聖なる時、決定的な時/ヨハネによる福音書12章27節)が有ります。

Aこのカイロスの時が来た時に全精力を、全存在をかけて向き合う必要があります。私、大嶋もそのような時を経験しました。その一つが開拓伝道をし、教会が与えられた時です。
私にとっては創世記32章23〜32節にある神と向き合う時でした。(付け加えると、ブラジルに遣わされた時、会社に就職した時/仕事を辞めた時、そしてひよどり台に住むようになった時等は今から思えば今日の教会を建て上げ、伝道牧会をとおしてさらに教会形成のための「備えの時」でした。)

B私たちが「その時」を受け入れたならば最善を尽くして行動に移す必要があります。エステルが死を覚悟して王の元に面会に行ったように。その時に主は祈りに応えてくださり、最善をなしてくださるのです。今に全力を尽くす時に神様は最善をもって応えてくださるのです。この事を心に留めて今の現実と向き合って生きて欲しいと思います。

あなたの“この時”のために。祝福をお祈り致します。    

2010/10/17(日) [信仰の確かな実り」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)ペトロ第一1:3〜9 

今朝はレジメをとおして、信仰の実りについて学びましょう。
はじめに:
 春に蒔いた種が芽を出し、葉をつけて成長し、猛暑の夏を経て豊かに実り秋には収穫の時を迎えるように、私たちの信仰も洗礼からスタートして、やがて豊かな実りをみると思います。

本 論:
神が喜ばれる信仰とは
 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、…素晴らしい喜びに満ちあふれています。あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(1章8〜9節)が今日のみ言葉の中心です。
 信仰とは何なのか→それは神に対する全面的な信頼の態度なのです。神のなされる素晴らしいみ業への信頼です。そして私たちの肉体と精神と魂の全存在が神に向かう事です。具体的には礼拝でみ言葉を聴き、聖餐に与る事です。神が喜んでくだるのは神に向かっての真実で謙虚な信仰なのです。イエス・キリストの復活を信じる信仰こそが神が喜んでくださる信仰なのです。日々の命の恵み、祝福、さらには天国において神と共に永遠に生きる事です。

信仰の実りとは
 具体的には次の3つがあります。
@「魂の救い」がその第1の事です。
 魂の永遠の滅びからイエス・キリストの十字架の贖いの死と復活を信じる信仰によってもたらされる罪の赦しと永遠の命こそが「魂の救い」なのです。(ロマ書6章23節)

A第2に「信仰の実り」とは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」にあります。(ガラテヤ5章22〜23節)どんな状況においても喜ぶ事が出来る平安が与えられる事が信仰の実りなのです。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(Tデサロニケ5章16〜18節)とあるようにこれこそがきよめられたキリスト者の姿なのです。

Bその第3の事は「全存在をもって神を愛し、隣人を愛する事」が出来る事です。私たちの目に見えるものは消えていきますが、最後に残るものは「信仰と、希望と、愛」この3つであり、そして「その中で最も大いなるものは愛」なのです。 (Tコリント13章13節)

(まとめ)
信仰の実りとしての魂の救いを確信し、日々、喜びと感謝に満たされ、家族や近隣、職場や学校などで関わりのある人々を分け隔てなく心から愛し、真実に生きて人生を全うしたいものです。

2010/10/10(日) 「心安かれ、我なり、懼るな」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)マルコ6:45〜52
(今朝の物語)
 「うみ(海・湖)」はサタ−ンが支配している世界だと言われていました。→試練や苦難を受ける場所だと思われていました。その「湖」を舞台にした物語です。
イエスは弟子たちを強いて舟に乗せて向こう岸に行かせようとされます。漁師出身の多かった弟子は今日は多分、湖は荒れて危険な日だと分かっていたのでは無いでしょうか。イエスの言われたように弟子は舟に乗ります。そしてイエスは祈るために山に行かれます。夕方になると舟は湖の真ん中に出て行ったが逆風のために漕ぎ悩んでいました。舟は前に進まなかったのです。これを見られたイエスは湖の上を歩いてそばを通りすぎようとされました。このイエスを見た弟子たちはイエスを幽霊だと思い怯えます。この時イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れる事はない」と言われイエスが舟に乗り込まれると風が静まりました。

(み言葉から学ぶ事)
 今日のみ言葉からは次の3つの事を学びます。
@人生には逆風、漕ぎ悩む事がしばしばあります。―あなたの人生にもそのような事が無かったでしょうか?家族関係で、職場で、様々な人間関係で「何故?」と思い悩んだ事が無かったですか。それが人生の苦難・試練です。そんな時に人は不安になります。時には孤独になります。全ての人の人生には孤独があります。その時にイエスがいて下さるのです。「安心しなさい」と言ってくださいます。

A主は私たちの危機の真っ只中にいてくださいます。―神様が私たちの中にいて下さると言うのが私たちの信仰です。「主が私たちと共にいてくださる」と言うのが旧約聖書を貫く一貫した信仰でした。「恐れるな。私はあなたと共にいる」(イザヤ43章1〜5節)

B51節に「イエスが舟に乗り込まれると、風は静まった」とあります。イエスが舟に乗れ込まれるとはどんな意味があるのでしょうか。それはイエスを信じて受け入れた時に風が静まったと言
う意味です。イエスを信じて、受け入れた時に私たちの心は平静になるのです。喜びや感謝、平安や希望が与えられるのです。

(結論)
 今日のメッセ−ジの結論は「…あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」です。
(ヨハネ16:33)このみことばを確信して人生の逆風を乗り越えて行きましょう。

2010/10/03(日) 「成熟したキリスト者として」大嶋博道牧師
総員礼拝・聖餐式 (聖書)エフェソ3:14〜21

(はじめに)
 今日は「成熟したキリスト者」について学びます。具体的には@クリスチャンの成熟とは何か?
Aキリスト者は何故成熟しなければならないのか?
Bキリスト者が成熟するためには何が求められるのか?について学びます。
T.成熟とは
 キリスト者のスタ−トは何処にあるのでしょうか。基本的には「洗礼を受けた時」がスタ−トと言えます。ではキリスト者のゴ−ル〜目標は何か、それは「成熟」と言えます。成熟とは辞書によると、一般的には「果物や穀物が十分熟すること、人の心や身体が十分かつ健全に成長し、自立した大人になること」を意味します。「十分に熟する事」とあります。
そして信仰的には、エフェソ4章13節にあるように「キリストの満ちあふれる豊かさになる」まで成長する事です。日々全存在をキリストに向ける事です。豊かなキリストの霊に満たされるようになる事です。その最終目標は「キリストに似た者」となる事なのです。(教派によっては、「聖化」、「全ききよめ」「キリスト者の完全」「聖潔」「聖霊の充満」などと表現します。)

U.成熟する理由
 では何故成熟しなければならないのか。何よりも主が私たちが成熟する事を望まれているからです。人は成長する存在です。子どものままでいることは出来ないのです。それと同様に、キリスト者も日々、階段を上るように、聖霊の導きのもとに「恵みの高嶺」に成長しなければなりません。成熟したキリスト者をとおしてイエス・キリストが宣べ伝えられ、証しされるのです。フィリピ3章13〜14節にあるように、私たちは「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ…目標を目指してひたすら走る」存在でありたいです。神が聖なるお方ですから、私たちも聖なる者とされましょう。(Tペトロ1:15〜16参照)

V.成熟するために求められる事
 第1の事は、3章16節に「…あなたがたの内なる人を強めて」とあるように私たちは「内なる人が強められる」事が求められています。キリストを信じ、新しくされた人は内なる人が
強められます。
 第2の事は17節に「…信仰によってあなたがたの内にキリストを住まわせ」とあるように私たちの心にキリストを住まわせる(永住していただく)」事がです。
 第3の事は19節に「…愛を知るようになる」とあるようにキリストの愛を知り、愛に根ざした(愛を土台にした)生活を送るようになる事です。日々、成就に向かって歩みたいものです。


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