ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2010年2月
前の月 次の月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28            
最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

直接移動: 20163 月  20153 1 月  201412 11 10 9 8 7 月  20139 8 6 5 4 3 2 1 月  201212 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201112 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201012 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200912 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200512 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200412 11 10 9 8 7 6 5 4 月 

2010/02/21(日) 「新たな生き方を目指して」大嶋博道牧師
聖日礼拝(聖書) ローマ12:1〜2

序 論:
 キリスト教には「新生」と言う言葉があります。「新しく生まれる」「新しい命」と言う意味です。
 (ヨハネ3章3節)それは「キリストを救い主として信じて告白する」事から始まります。この事は聖霊に触れる事によって永遠の命が与えられ、神の子として生まれ変わる事を言い、きわめ
て「霊的」な事なのです。
 キリストにある新しい命と言う事を身近な生活の中で感じて生きる事が大切です。今日という日を希望を持って生きる事が大切です。新しい生き方をする事とは神を愛し、隣人を愛して生きる生き方です。右手のした事を左手に教えない生き方をする事です。

本 論: 
その為には今日の聖書が教えている次の3つの事が大切です。
@自分の体を神に喜ばれる聖なる生け贄として献げる事がその第1の事です。
この世から分離され神専用として用いられる生き方です。貴方の体を神に捧げた時にそれは聖なるものとなるのです。

Aこの世に倣わない生き方をする事がその第2の事です。
この世の型にはまる〜この世に調子を合わす事を良しとして生きてはなりません。聖書に基づき、信仰によって自分のリズムで生きる事です。神中心の生き方を聖書の中から探す事が大切です。

B心を新たにして自分を変える生き方をする事がその第3の事です。
自分が新たに造り変えられる事です。そのためには、日曜ごとの礼拝は最優先させましょう。
「礼拝」の原意は「自分を犠牲にして神の前にひざまずく〜ひれ伏す事、仕える事、」則ち毎週このようにして礼拝する事です。
ここから新しい一週間が始まります。皆さんも今日からこのような生き方を始めて見てはどうでしょうか。いいえ、皆さんの生き方を是非そのような生き方に変えてみて頂きたいと願います。
祝福をお祈りしています。

2010/02/14(日) )「賜物の多様性」畑中康雄勧士
信徒礼拝 (聖書)コリント第一12:4〜11   

パウロは霊の賜物を「賜物の多様性」「奉仕の多様性」「働きの多様性」に分け
@「賜物はいろいろありますが、それをお与えになっているのは同じ霊です。」(4節)
A「務めにはいろいろありますが、それをお与えになっているのは同じ主です。」(5節)
B「働きにはいろいろありますが、全ての場合にすべてのことをなされるのは同じ神です。」(6節)と述べています。
 
 色々な賜物が与えられているがそれは全て同じ主から出ており、ですから神の民の間には誇りや分派が生じる余地はなく「われわれは1つである」と言っています。私たちに与えられている賜物の働きの目的は7節にあるように全ては全体の益となるためなのです。私たちの賜物、務め、働き、更には各自に賜っている御霊の現れもさまざまですが全て同じ主から出ており、それらは全て個人的な利益や栄誉のためにではなく「全体の益のために、教会のために、神のみ国の建設のために賜っている」とパウロは説いています。
そして8節以下ではこれらの賜物の内容を具体的に説明しています。

マタイによる福音書25章14〜30節の「タラントのたとえ」では主人は3人の僕に5タラント、2タラントそして1タラントをそれぞれに預けて旅に出ます。5タラント預けられた僕はそれで商売をしてほかにもう5タラントを儲けます。2タラントを預けられた僕はほかにもう2タラント儲けます。しかし1タラント預かった僕はそれを地中に隠して置きました。主人が旅から帰ってきた時に5タラント儲けた僕、2タラント儲けた僕は「忠実な良い僕だ。良くやった」と褒めて貰いますが地下に埋めて保管していた僕は「怠け者の悪い僕だ」と言ってお叱りをうけます。

私たちのタラントは神様が決めてくださるものであり、その大小によって私たちの価値が左右されるものではないのです。それを如何に使うかという事が私たちの価値を決めるのです。
少ししか賜物を預かっていないと1人で思い込み地下に埋めてしまってはいないでしょうか。

 今日のみ言葉に続く12章12節からの「一つの体、多くの部分」と言うみ言葉にあるようにお互いに与えられた賜物を活用する事、与えられた賜物を生かして行うご奉仕の結果が一つと成って神様の全体のご奉仕が完成するのです。「弱さ」をも生かしてくださる神様を信頼して「多様な賜物」を土の中に埋めないで主のご用のために使いたいものです        

2010/02/07(日) 「この最後の者にも〜葡萄園の労働者の譬え」大嶋博道
総員礼拝 (聖書)マタイ20:1〜16

序 論:
日本の社会は「能力主義」「実力主義」を前提としています。より能力のあるものがより優遇され、より多く報いを受ける社会です。それに対して聖書が私たちに教えている社会は、主であるイエス・キリストが温かい目を向けておられる社会〜天国です。そこは私たちの合理性を越えた愛と恵みの社会です。私たちが神様から無代価で愛をいただく事が出来る社会です。そこは、「最後の者」である罪深い人も、弱さを持つ人も、何も出来ない人も、生きるに価しないと思われるような人も大切にされ、「あなたは高価で貴い」と言ってくださるような「逆転の社会」なのです。愛によってのみ成り立つ恵みの社会です。

 今日の聖書のみ言葉によると、主人はぶどう園で働く労働者を雇いに市場に出かけて行きます。そして6時には1日当たり1デナリオンで雇います。そして9時にも、12時にも、3時にも、そしてなんと(労働時間は夕方6時迄なのに)最後の5時になってもそこに出かけて行って雇います。
 そして賃金を支払う時になって「最後に雇われた者」から始めて朝6時の最初に雇った者まで順に同じように1デナリオンの賃金が支払われます。最初に雇われた者も最後に雇われた者にも同じように賃金が支払われました。そしてこれが天国の世界だと言われるのです。この事は私たちの常識では受け入れられない事でした。

本 論:
 ぶどう園の主人は「神」で、労働者は「私たち」です。そして1デナリオンとは「救い」です。
天国には自分の功績では決して入る事が出来ないのです。人間の合理的、数学的計算を越えたところに神の国は存在するのですまさにそこは「愛の世界、恵みの世界」です。
 
  さて、この物語から次の事を学びます。
@神が与えられる救いは全ての人に平等である事。
神は悪人にも善人にも等しく太陽を昇らせ、雨を降らせて下さるのです。(マタイ5:45)神の義(救い)は、神の恵みにより無償ですべての人に及びます。(ロマ3章24節)
A神はどんな人にも(「最後の者にも」)愛を豊かに授けられるお方である事。(ルカ15章の
「見失った羊」や「放蕩息子」の譬えを参照)
B救いは行いや業によるのではなくて、ただ信仰、ただ恵みによる事(エペソ2章8〜9節)
私たちは「全て平等に」「最後になった人にも」「自分の業によるのではなく、ただ謙って主のみ前にひれ伏す信仰により、恵みによって」救われるのです。

今朝、改めて、私たちは夕方5時に雇われた労働者と同じ存在であることを確認しましょう。そして、ただ主の恵みによって雇われ、一番最初に「一日分の賃金」を受け取ることが出来る者とされていることを心から感謝し、謙って神を愛し、隣人を愛する者となりましょう。


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.