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2010/03/14(日) 「強いられた十字架が」大嶋博道
聖日礼拝<聖書)マルコ15:21〜25

序 論:
 今年は3月28日から受難週、そして4月4日にイースタ−(復活節)を迎えます。
今日は主イエスの受難と復活を覚えて、特に十字架の意味について学びます。今朝取り上げた聖書の箇所のクレネのシモンが無理にイエスの十字架を背負わされたという記事は、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書に出てきます。それだけ大切な、注目しなければならないみ言葉と言えます。
 強制的に(無理に)担がされた十字架には果たしてどのような意味があったのでしょうか。これが今朝のメッセージの中心です。

本 論:
 その1つは「人生の選択における恵み」と言う事です。
私たちの人生においては「選択する」と言うことがしばしばあます。どの学校に入るか、どの職業に就くか、どこに住むか、だれを人生のパートナーにするか、何を信仰するか
など・・・。「選択する」ということは、同時に「捨てること」でもあります。何を選んで、何を捨てるかは人生を左右する極めて大切なことですね。
 イエスの十字架に関して言えば、もし弟子たちや当時の指導者たちや群衆などが間違った選択をしなかったなら、「イエスの十字架」はあのような形で無かったのではないかと思われます。例えば、銀貨30枚でイエスを敵に売り渡したユダの選択、イエスを三度も知らないと否定したペトロの選択、裁判の席でバラバをゆるすかイエスをゆるすかを群衆に委ねた総督ピラト、そしてイエスを十字架につけることを選択した群衆。すべては間違った「選択」でした。
 私たちは選択をしなければならない時には「自分の利益ではなく他の人の利益、強いては神様が喜ばれること」を基にした選択をしたいものです。

 二つめのことは「強いられた十字架の恵み」と言うことです。
クレネのシモンは強いられて十字架を背負わされました。「強いる」というギリシャ語の「アナンカゾー」には無理に、否応なしに、道理に反してという意味があります。
私たちは時として「強いられた十字架」を背負わなければならないことがあります。家庭生活の中で、地域社会で、職場で、あるいは人間関係の中で「マイナスを引き受けなければならない」時があります。私自身も18歳で献身して神学校に入学し、卒業後は南米ブラジル宣教、帰国後は10年間のサラリーマン生活を余儀なくされ、再度、主の召しを受けて、最も困難な開拓伝道に従事しました。このような中で「強いられた十字架」を喜んで背負うことができたのです。

 聖書のテキストに戻ります。アフリカの田舎からたまたま出て来て通りがかったシモンはイエスが担いで歩くべき十字架をローマ兵によって強制的に背負わされる事になりました。
「とんでもない事になった。何故?」とシモンは思い、つぶやいた事でしょう。イエスを呪ったことでしょう。しかし、その道中でイエスの愛と憐れみの眼差しに接した時に、「十字架を担うのはイエスではなく、罪人の自分である」と思うようになったのです。そして、イエスの十字架を担うということに喜びを覚えたのに違いありません。
 人生の中には自分が望んで背負う十字架と強いられて背負う十字架があります。その強いられて担う十字架はあなたにとっては恵みなのだと言うことを今日は学んで欲しいと思います。

 シモンは後になって、この出来事がきっかけで救われ、家族共々、素晴らしいクリスチャンとなり、初代教会の中心的な役割を担うことになるのです。そしてあのパウロをして、シモンの息子を「主にあって結ばれている選ばれた者」(ローマ16章13節)と言わしめ、さらに、シモンの妻を「彼女はわたしにとっても母なのです」と言わしめたのです。無理に背負わされた十字架の恵みの証です。祝福をお祈り致します。


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