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2010/03/21(日)
「十字架への道」畑中康雄勧士
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信徒礼拝 (聖書)マタイ26:14〜25 銀貨30枚と引き替えにイエスを十字架につける手助けをしてしまったユダに対して主が行われた事に学びましょう。則ち、私たちが罪を犯した人たちや信仰が弱っている人たちを励まし、勇気づけるためにキリストがユダにされた事に見習うようにしなければなりません。 キリストはユダに「立ち返るように」と警告し続けられました。「誰それが私を裏切ろうとしている」と名前を挙げて言われないで「あなた方のうちの1人が」とユダの名前を伏せる事でユダになおも悔悛の機会を与えられました。「そうです。私が裏切ろうとしていました。申し訳ございません」とユダが立ち返ように配慮されました。 「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去っていく」この言葉にもイエスの深い思いやりと思慮深さがあります。それはイエスが十字架に架かられるのはイエスの弱さではなくて、そのように神様が定められている事を教えて弟子達がイエスを信頼してい るその気持ちを支えるためであり、また一方では裏切る者に対しておまえの性ばかりではないのだよ、私の運命はそのように定められているのだよ、と優しく諭されるためでした。 しかし、注意すべき事は、救いを実現させたのはユダの裏切りではなくて、キリストが私たちを救うためにユダと言う人間の悪意を用いられたと言う事実です。ここで「もしも、ユダがキリストを裏切っていなかったら私たちには救いが無かったのではないか」と言う疑問がありますが、仮にそうであったとしても全知全能である神様は私たちを救うほかの方法を知っておられたのに違いないのです。 ですからイエスはユダに対して「不幸だ」と言われるのです。イエスは何回も優しさを持ってユダを諭し、立ち返る機会を与えられました。このように、神は限りない愛を持って私たちに接してくださいます。
私たちが間違いを犯し、イエスのみ言葉が私たちに迫って来た時には、すぐさまみ声に従って正しい道に立ち返るべきなのです。ユダが裏切りと言う大きな罪を犯してしまうまでの経過の中で、何度もユダを諭された事を学び取り、神様の限りない優しさ とその優しいみ声に従う事でユダのような罪人とならない事を私たちはこの物語を通して学ばなければなりません。
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