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2010/03/28(日)
「弱さを誇る信仰」〜私は何者でしょう。熊谷直也神学生
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年度末・受難週特別礼拝(聖書)出エジプト3:7〜12 〔年度末・受難週―熊谷神学生フィールドワーク最後の礼拝にて〕 序 論: 「わたしは何者でしょう」この言葉と、神様の返答が、かみ合っていないように感じる。「どうしてこのような私が、主のご用を全うできましょうか」とモーセが言ったのであればで、わたしがあなたと共にいるから、あなたにはそれができる。そう語られる神様の返答は正しく思う。しかしモーセは、「わたしは何者でしょう。」と語った。その返答『わたしは必ずあなたと共にいる。』の会話から、モーセの問いかけは、神に対する問いのみではなく、自分自身に対する問いのように思うのである。
本 論: 1.自らの発見―モーセはおそらく、人を殺し、仲間からも蔑まれ、国を追われ逃げて来たこんな私に、できるわけがない!そのような思いだったことだろう。神様は、「わたしは必ずあなたと共にいる。」とモーセを激励された。この励ましを受けたモーセは、私は今、イスラエルの人々のところへ参ります。という決意を即答した。モーセ以外にも、自らに問いかけた神様に召された人々がいる。イザヤは「わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の中に住む者。」と自らを語り、エレミヤは「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」と自らの存在を見出し、語っている。 パウロは、Uコリントに度々記されているように、自分は弱いと繰り返し語っている。パウロが言う自らの弱さとは、具体的には、未熟児として生まれた者(Tコリント15:8)、ガラテヤ6:11から推測できるように、大きな字で手紙を記すパウロは目が悪かったとも考えられる。大嶋牧師の学説によるならば、Uコリント11:23以下にあるように、迫害の為に受けた傷による“ムチ打ち後遺症”だと思われる。パウロはこれを「弱さ」と語った。これらの「欠け」は、様々に異なるが、「弱さ」という言葉に言い表されると思う。
2.弱さを自覚した者への神の約束―モーセに対して神様は「あなたと共にいる」と語られた。同様に、イザヤ、エレミヤ、パウロ、アブラハムらにも、「共にいる」「守る」など、神様は臨在と祝福の約束をなされている。パウロは、Uコリント12章7節、自らの肉体的弱さを「とげ」として表現した。神様は、このとげを取り去ってほしいと祈るパウロに、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と語られた。癒しだけが神様の栄光ではなく、病気をも、困難をも、主の栄光が表される舞台として時に用いられるのである。わたしは何者でしょう。自らにそう問いかける時、自分が一体どういう存在なのかを自覚し、こんなわたしが、このようなわたしが、そういった告白、自覚によって、そのようなわたしを愛しつづけられる神の深い愛を知り、わたしたちは弱い者であるが故に、逆説的に、神様によって強い者とせられ、神の栄光を表す器として用いられるのである。 モーセ、イザヤ、エレミヤ、パウロ、いずれも偉大な主の御用を成した人物であるが、聖書が語る彼らは、実は「弱さ」を持つ人物であり、神様は、あえてそのような人物を用いて、偉大な業をなされたのである。
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