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2010/03/07(日)
「汝、我を愛するか」大嶋博道牧師
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総員礼拝・聖餐式 (聖書)ヨハネ21:15〜19 はじめに: 聖書の中には主イエス様からの大切な問いかけがある。今日のテキストもその一つである。「この人たち以上にわたしを愛しているか。」(文語訳では、「汝、この者どもに勝りて我を愛するか。」)この問いに、生涯をかけて全身全霊をもって答えて行くのがキリスト者である。 本論:
1.主と共に生きる信仰 21:1以下に記されているように、弟子の7名は、ペトロの呼びかけに応じて漁に出かけ、そこで復活の主と出会う。主は、陸に上がって来た弟子たちに、食事を用意されており、弟子たちは主と共に食卓を囲む。この、主と共に生きる信仰は初代教会からずっと大切にされてきた、特に聖餐式を通して示されて来た大切な信仰である。パウロは度々エン クリスト(キリストにあって)という言葉を使う。すなわち、キリストの内にという意味である。J.ウェスレーは、自らをバイブル党であると述べ、どのようなことであっても、全てにおいて聖書に従い、みことばを自らの魂の奥深くに常駐、常宿させると語った。
2.この者ども以上に我を愛するかという主の問いに私たちはどう答えるか。 ペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えた。十字架の時に、イエスを裏切り、3度「知らない」と言ったペトロに、3度「愛しているか」と問われたと「3度」を聖書注解者たちが言及しているのは、もっともな意見に思える。しかし、注目すべきは、この者ども以上に、他の事、物、何にもまして私を愛しているかという主の問いである。父の入院の翌日から、海外での働き、教会バザー、コンサート、クリスマス、聖会の講師、結婚式、研修会の講師と、とても大切な、大きな働きがあり、信仰が試された。祈り求めた結果、全てを主に委ねて、主の業、教会の働きを優先させることの確信を与えられた。全てのプログラムは無事に祝されたものとなった。「この者ども以上に」、この厳しいけれども時に私たちに求められる試練に答える時、全てが益とされる。その信仰の確信に立ち、答える者となりたい。
3.主に心から喜んで従うこと ペトロは、20節以下で、ヨハネが気になった。主はペトロに「あなたに何の関係があるか。」と言われた。信仰は他の人の問題ではなく、私個人の問題である。ペトロは、伝説によれば、逆さ十字架の刑によって殉教する。 D.ボンヘッファーは、「信仰とは従順である」と言及した。つまり、素直に従う事である。スミルナの殉教者ポリュカルプス(AD69-155)は、ローマ皇帝が神とされる国家の時代の中で、皇帝が神であることをはっきりと否定した。たった一言、キリストを呪い、皇帝を崇めれば許そうと誘惑されたが、彼は、86年間、一度も主は私を裏切らなかった。どうして主をののしれようか、とかっきり答えた。そして、火あぶりの刑にされた。
信仰とは、私たちを厳しい所に追いやるものでは決してない。より大きな、より素晴らしい祝福に導くものである。しかし、時に試されるものである。 「汝、この者どもに勝りて我を愛するか」私たちを愛しておられる主に、全生涯をかけて答えて行きたい。祝福を祈りつつ。
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