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最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2010/04/25(日) 「輝かしい恵み」副島恵牧師
フレンズサンデー特別礼拝 〈聖書)エフェソ1:3〜7

 エフェソの信徒への手紙1:3-5を読むと、私たちがイエス様によって神の子とされている事がわかる。
 私たちが選ばれた(ヨハネの福音書15:16)理由は、「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるため」(エフェソ1:6)である。

「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」(エフェソ1:4)。このみことばを自分のこととして受け止めたい。私たちの成長の鍵は霊の部分において成長できるかどうかである。では霊的に成長するとはどういうことか。

 ペトロ手紙Uの1:3-4には霊的に成長する目的が書かれている。霊的に成長する目的は、神様の本性、神様のご性質にあずかる者となることである。神様の本性、それは聖さであり、愛である。クリスチャンとして成長する、それは神様の聖さ、神様の愛に満たされていくということである。
 私たちは神様の聖さ、神様の愛に満たされることに積極的でありたい。私たちがクリスチャンとして成長するために必要なものはすべて与えられている。神様の力によって、私たちには霊的に成長していく力が既に与えられている。
 
 この輝かしい恵みを信じ共に霊的に成長させていただきましょう。私たちが霊的に成長していく時に、いろいろな問題が立ちはだかる。時に私たちは両立できないような願望を持ったりするかもしれない。無力感にとらわれ、人生がつまらないものに見えるかもしれない。気が小さくなって消極的になったりするかもしれない。自分自分を責め心を小さくするかもしれない。不安に襲われる時、恐れを持つ時、寂しさを覚える時があるかもしれない。
しかし、「 主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました」(Uペテロ1:3)。
 
 このお約束を信じ霊的に成長し「全き愛」の恵みに与りたい。霊的に成長する、「全き愛」に与る、その秘訣は神様の輝かしい恵みを日々数えていくことである。 

2010/04/18(日) 「パンくずさえ・・・・」西脇衛士勧士
信徒礼拝 (聖書)ヨハネ6:1〜15

今日の聖書の箇所はよく読まれ、印象に残る所ではないでしょうか。
5千人以上の人にどのようにお話をされたのか。魚とパンがどのように増えていったのか。12の篭はどこからきたのか。等質問したいことがあるかも知れませが。

今日はパンくずさえ大切にされるイエスさまのメッセージです。この箇所から2つのことを取り上げたいと思います。
1つは「パンくず」 2つ目は「無駄にしない」と言うことです。

この出来事は四福音書に並行記事が記載されていますが、この6章 の記事の中にしか無い文言もあります。1つは6:9パンと魚とを持っている少年。一つは6:12 少しも無駄にならないように、言う言葉です。
イエス様はこの無駄と思えるパンくずに注目しています。
弟子たちはパンくずを集めて何になるだろうと思ったかも知れません。しかし、集めると12の篭に一杯になりました。しかしパンくずはいくら集まってもパンくずです。何の役にも立たない無駄な物です。
 
 しかしイエス様は「このパンと魚のくずを1つも無駄にしたくはなかったのです。ヨハネはこの「無駄にならないように」という言葉にヨハネ3の16の「一人も滅びないで」という言葉と同じことばアポレータイ「滅ぼす・失う・消え去る」を使っています。新契約聖書は「少しも亡(うしな)わざるよう」と、ヨハネ3の16では亡(ほろ)ぶることなく」と訳しています。

 主は捨てられるパンくずさえ大切にされるとしたら、なおのこと神さまが創造されたどんな人をも大切に、愛されるのではないでしょうか。イエス様は。髪の毛一本、一羽の雀さえもお心に留めておられるお方です。パウロは自分を「罪人の頭」と言い、ジョン・ウェスレーは「火から取り出された燃えさし」と言っています。

しかし、神さまは「イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と言って下さり、このパンくずのような、滅び行く者のためにひとり子を私たちの救いのために十字架の上に差し出して下さいました。このパンくずは何の為に集められ、何の役に立ったのでしょうか。

 神さまは無駄なことをされるお方ではありません。全て造られたものは神さまの栄光を表すためのものです。罪深い私を滅びより救い出し、神の子とし、神さまのご栄光を表そうとしておられるのです。
私たちをそのような光栄あるものとして日々造り変え、用いて下さろうとしています。日々、主の御手にお委ねして行く時、主の栄光が表されるのです。

教会は様々な人々が主によって集められた群れです。一人一人が主の手に用いられる時、神さまの大きな御業が表されるのではないいでしょうか。「ここにちっぽけなパンくずがおります。主よお使い下さい」と主の前に持ち出しましょう。  

2010/04/11(日) 「心が燃えてVターン」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)ルカ24:28〜35

序 論:
 私はイースターの頃にはこの聖書の箇所を良く用いています。それはこの聖書の箇所が「キリストの復活」の意味を的確に表しているからです。
聖書によると、クレオパともう一人の弟子がエマオへの悲しみの旅をしていると、目が遮られていて甦られたイエスを見ることが出来なくなった〜同行して下さっているのがイエスだと気づかなかったが、夕方になって目が開かれて、同行者がイエスだと気づいたとあります。そして2人は言います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心が燃えていたではないか」と。

本 論:
 今日は「何が彼らの心を燃やしたのか」と言うことと「心が燃えたらどうなるか」と言うことについて学びます。
エマオへの途上では、彼らは目が遮られ、暗い顔をしており、失意の状態でした。
このような状態から、心が燃える思いに変えられたのは、復活のイエスが「一緒にいてくださる」(15節、29節、30節)ゆえでした。二人の弟子たちが「臨在信仰」に生かされた瞬間でした。
「主が共にいます(インマヌエル)」という信仰です。二人の心が燃えたのは、まさに甦りのイエスと共に歩む時だったのです。(25〜27節・35節)

「心が燃える」とは「命に火がつき」「心の元気が回復した」状態を言います。
悲しみが喜びへ、失望が希望へ、不安が平安へと変えられることです。私たちの人生は心の燃える人生であって欲しいと願います。
 
 では心が燃えるとどうなるのか、

(1)それは復活の命をいただいて心に希望が湧きます。明日への期待が出ます。「希望」とは明日への期待であり、明日を生きる力そのものです。人生の本当の希望は復活のイエス・キリストからのみいただくことができるのです。

(2)そして更には「生きる使命」が与えられます。
心が燃えると、人生の意味や目的、自分の役割というものが明らかにされるのです。

 生きる使命が与えられた2人は「もう一度エルサレムに向かって」「イエス・キリストを証する生活」へと歩み始めました。これこそ勝利のVターンです。 
私たちも礼拝での説教と主を記念しての聖餐(パンとぶどう汁)をとおして、また日々のデボーションによるみ言葉と祈りによって心が燃やされて希望の明日に向かって勝利のVターンをしたいと思います。
 悲しみと失意のエマオでなく、喜びと希望のエリサレムへの勝利のVターンです!
皆様の祝福を心からお祈り致します。

2010/04/04(日) 「歴史的神の啓示」滝谷良一牧師
イースター記念礼拝 (聖書)エゼキエル37:1〜14,マタイ28:1〜16

はじめに:
 イースター記念礼拝にお招きを受け、メッセージをお伝え出来ることを大変嬉しく感じています。

序 文:
 私は若い頃、旧約聖書、特に歴史書をよく読みました。しかし、エゼキエル書を深く研究するまでは、歴史書がなぜ「神の言葉」なのかを理解出来なかったのです。
私は、エゼキエル書を博士論文に選びましたが、その理由はエゼキエル書があまり研究されてなかったこととエゼキエル書37:4の「これらの骨に向かって預言しなさい」という言葉で牧師としての召しを受けたからです。実は、エゼキエル書は、神の言葉の本当の意味を教えてくれる書物なのです。

本 文:
(1)エゼキエル書の特徴―それは「知る」という言葉で、86回出て来ます。特に「そして、お前たちは(彼らは)わたしが主(ヤハウエ)であることを知るようになる」という表現が54回も出て来ます。

(2)神を知る方法―祈りや瞑想や教師の教えを聞くことがありますが、何よりも、聖書的方法として歴史の中でご自分を啓示される神に出会うことであります。特に「わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げる」とあるように、神が歴史の中でなされる業をとおしてであります。

(3)神の独り子の受肉をとおして―「言葉は肉体となって、わたしたちの間に宿られた。・・・」(ヨハネ1:14)とあるように、神の贖いと救いのみ業は、人類の歴史の真っ直中でなされなければならなかったのです。

(4)罪と肉体の関係―「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り・・・」(ローマ8:1〜8)罪とは単に魂の問題だけでなく、人間全人格(肉体と魂と霊)ですから、キリストの贖いは魂の正常化と体の甦りを含んでいるのです。

(5)イエスの復活の歴史性と神の啓示―イエスの復活がなければ、人間の贖いと救いは完全ではなかったのです。イエスの十字架上の死と復活が歴史上でなされたことにより、初めて救いの良き音信が私たちに届き、神がどのような愛と恵みと憐れみに満ちたお方であるかが証明されたのです。これより確かな事実はありません。ハレルヤ!!

まとめ:
 キリスト教は歴史的事実としてのイエスの十字架の死と復活に拠って立っています。
私たちの信仰もここに根拠があるのです。私たちも復活されたイエス・キリストの栄光の力に与りたいと思います。そのためにも歴史の主である神に信仰によって出会い、深く知りたいものです。
「あなたがたはわたしが主であることを知ろう」(エゼキエル37:13)


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