ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2010年5月
前の月 次の月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

直接移動: 20163 月  20153 1 月  201412 11 10 9 8 7 月  20139 8 6 5 4 3 2 1 月  201212 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201112 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201012 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200912 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200512 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200412 11 10 9 8 7 6 5 4 月 

2010/05/30(日) 「10対2〜少数でも大丈夫」大嶋博道牧師
フレンズサンデー礼拝 (聖書)民数記14:5〜10

 今日のみ言葉からイスラエルの大きな分岐点となった出来事を学びます。その結論は「少数でも大丈夫」と言う事です。
 モーセは荒野のカデシュ・バルネアで、12部族の代表12人にカナンを偵察させることにしました。その内容は、カナンの土地は
@どんな所か
A住んでいる住民は強いのか弱いのか、人数は多いのか少ないのか
B土地は良いのか悪いのか等であった。

 偵察に行った12人部族の代表者はその土地は
@潤っており
A背の高いアナク人が住んでおり
B城壁に囲まれている、と報告しました。
その内の10人はその町は強いので突き進むべきでは無いと報告した。しかし他の2人即ち「ヨシュアとカレブ」はその土地を占領するようにと進言した。
 モーセはこの10人の方の意見を採用しました。このために主はモーセを進軍する事が出来ないようにされ、結果としてモーセとイスラエルの民は40年間この地でさまよう事になりました。そして進む事を進言した「ヨシュアとカレブ」は主の栄光を得て、後にイスラエルに入る事が出来ました。

 では何故この2人は主の祝福を得る事が出来たのでしょうか。
それは14章8節にあるように「主の御心に適い」「主が共におられる」と言う信仰を持っていたからです。具体的に、2人は
(1)神様の約束に立つと言う信仰を持っていたからです。
(2)先取りの信仰(未だ見ていない出来事を必ず成ると確信する信仰)を持っていた。さらに、
(3)神が共にいてくださると言う事を確信したからです。そして
(4)臨在の信仰をこの2人は持っていたからです。これらの信仰を、主は祝福してくださったのです。たとえ、困難な中にあっても、神様は扉を開いて最善をなしてくださると言う“神を見上げる信仰”こそが本当の信仰なのです。

 ヨシュアとカレブ2人だけがイスラエルに入る事が出来ました。そしてモーセの後継にはヨシュアがなります。もう1人のカレブはヘブロンを与えられて大いに祝福されますがそのカレブは「40年前に私は主に従った」と40年前を振り返って言っています。例え人数は少なくても主の御心に従って歩むときには祝福を得る事が出来ます。そしてそうすれば主は祝福を与えてくださいます。私たち主の御心に沿って歩みたいものです。

2010/05/23(日) 「立ち上がり、歩きなさい」大嶋博道牧師
 ペンテコステ記念礼拝 (聖書)使徒言行録3:1〜10

今日の中心の聖句は「キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言う6節のみ言葉です。
「ペンテコステ(聖霊降臨日)」とは、「私たちの魂の奥深いところに与えられた聖霊の力によって立ち上がり、歩き始める」日です。
(1)ペンテスコテとはどんなことが起こった日なのか。それはみ言葉によると「一同が一つになって祈っていると(集団の祈り)激しい風が吹き(神の臨在)炎のような舌が1人1人の上にとどまり、一同は聖霊に満たされ」人々は外国の言葉で話し出しました。(使徒2章1〜4)と言う神の力強い、み業が行われた日なのです。

(2)では、私たちが聖霊に満たされるためには何が必要なのでしょうか。
それは
@主の約束を信じて待ち望み
A共に集まり、一つになって祈ることです。
 ヤコブの手紙4章8節に「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」
とあるように、先ず私たちが神に近づくことです。私たちが祈りとみ言葉によって神に向か
う時に主なる神は近づいてくださるのです。

(3)では聖霊に満たされれば私たちはどのようになるのでしょうか。
それは私たちに
@新しい命が与えられ
A癒しの業が行われるようになり
Bキリストを宣べ伝えることが出来るようになるのです。

今日のみ言葉(使徒3:1〜10)によると、生まれながら足の不自由な男が、「キリストの名によって立ち上がり、歩くようになった」とあります。私たちが霊的に、内側から満たされて立ち上がり、歩き出すことが出来るようになり、さらに神を讃美することが出来るようになる力を神からいただくことが出来ると言う約束が、今日のみ言葉にはあります。私たちは聖霊の働きによって、神の臨在を感じ取ることが出来るようになるのです。

 私たちキリスト者は「救い主イエス・キリストの名によって」「弱さと言う床を取り上げて立ち上がり」「賛美しながら前に向かって歩き出す」と言う驚くべき神のみ業を、このペンテコステの日に経験したいものです。イエスの名は神の臨在、神の権威、神の救い、神の導きを意味します。
この「名」によって立ち上がり、歩き出しましょう!祝福をお祈り致します。

2010/05/16(日) 「心は喜び、魂は躍る」 大嶋博道牧師
聖日礼拝・聖餐式  (聖書)詩編16:1〜11

〔メッセージの中心と結論〕
 今日の中心となるみ言葉は「わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います。」(9節)にあり、メッセージの結論は「主である神との霊的な交わり(絶えず神と向き合って生きる事)が個人生活、家庭生活、職場生活、社会生活そして信仰生活における喜びと幸いの根源(土台)である」にあります。だからこそ「わたしの心は喜び、魂は踊り、からだは安心して憩います」と詩人は告白しています。

〔詩編16編の説明〕
 詩編16編は「信頼と確信の詩編」と言われています。神の保護を求める冒頭
(1節)の祈りの直後に信仰告白が続いている(1〜2節)のもその現れです。詩人のダビデは数多くの苦難を味わっているが、その苦難の中で詠ったのがこの詩編の16編です。
 私たちの人生にも苦難がつきまといます。そして私たちには将来は見えません。
明日、私を襲うかも知れない様々な心配の中で私たちは生きています。
しかし、主は「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気をだしなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16章33節)と言われます。

〔生活の中心軸がぶれないために〕
 信仰によって生きるなら、それらの心配ごとを乗り越えることが出来ると主は言われます。イエスから目を離さずに生きるならば、私たちは揺らぐことは無いのです。
「中心軸」がぶれることのない人生を送ることが出来るのです。そのように言ってくださる神様の約束のことばゆえに、私たちは次のように告白する事が出来るのです。
@あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。(16・2)
A主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。(16・5)と。

〔逃れる道が備えられている〕
 神様は私に信仰を通して生きる力=試練や困難を克服するエネルギーを与えてくださいます。ですから人生を楽しみながら、豊かに、前向きに生きる事が可能になるのです。それはTコリントの信徒への手紙10章13節に「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」とある通りです。 感謝!

2010/05/09(日) 「祈る女性を必要とする教会」Bishop Joab Lohara
母の日特別礼拝 (聖書)サムエル上1:1〜15 

はじめに:
 今回、初めて日本を訪れ、御教会に招かれて温かい接待を受けて心から感謝致しております。今日は母の日ですので、すべての母親に心から感謝をささげ、祝福したいと思います。

本 論:
今朝は旧約聖書に登場するサムエルの母ハンナと教会史に登場するジョン・ウエスレーの母スザンナをとおして「母のうめきの祈り」の重要さを学びたいと思います。
ハンナは不妊の女性でしたが、子どもが与えられるように熱心に主に祈り、後に預言者
となるサムエルを与えられました。一方、スザンナは17人のどもを育てましたが、どんなに忙しくても主のみ前にひざまずいて祈り続けた女性で、後にメソジスト運動の創始者であるジョン・ウエッスレーやチャールズ・ウエスレーを信仰によって育てました。
 
 西洋社会に住む科学者の中には「自分たちはクロンーン羊を造り、人間のクローンも造ることが出来るのだから、もはや神を求めたり、神に祈ることなど必要ない」という者もいますが、どんなに科学技術が発達し、人間の英知が進化しても、神と向き合って魂を注ぎだして祈る「信仰」は人間にとって最も必要なものです。事実、神は土のチリで人間を創造しましたが、科学者はいかなる技術をもってしても、土のチリで人間を創りだすことはできません。神の前に謙遜になって、ひざまずきたいものです。
 
 祈りは人々を変え、人々の状況を変化させます。一握りの祈りのグループがリバイバルに火を付け、社会を変え、世界を変えたのです。それは今日まで続いています。
 ウエスレーの時代に見ることができた神の霊の働きを、現代になぜ見ることができないのか?それは私たちが今の状況に満足しているからです。神の奇跡を求めようとしないからです。今、私たちに大切なのは神に向かって呻きの祈りをささげ、リバイバルを切に求めることです。家族が救われるように、この町に、日本に救われる魂が続々起こされるようにと祈り求めたいものです。
 
 教会は今、ハンナやウエスレーの母がそうであったように、「女性の呻きの祈り」を必要としています。特に、母親の皆さん、今日、「主よ、私はあなたと心を合わせて熱心に祈る女性
になりたいです」と、神に向かって言える人になりましょう。祈りは必ずあなたの状況を変化させます!祈りは世界を変えます。祈りは偉大な預言者やリバイバルの指導者を生みだします。
母の日に際して、特に、すべての女性に祝福をお祈り致します。
※Bishop Jaab Lohara は今回初来日で、神戸ひよどり台教会は日本で最初の教会で、最初の礼拝を守った教会です。母の日にあたり、特に「Church Today needs Hanna and Susanna.」と題するメッセージをして下さいました。 (通訳は大嶋牧師)

2010/05/02(日) 「信仰〜日常生活の中で」大嶋博道
総員礼拝 ヘブライ11:1〜3 

はじめに:
 この朝は、私たちの「信仰と日常生活」との関係について触れてみたいと思います。
私たちの信仰が日常生活(家庭・職場での仕事)の中にどのように関わっているのかと
いうことです。3つのことをお伝えします。
一つは、基本的なことですが、「信仰とは何か」ということです。
二つめは、「信仰によって生きるとはどういうことなのか」ということです。
そして三つ目は、「日常生活の中で信仰によって生きるとはどういうことなのか」ということです。
本 論:

その一:信仰とは何か?
「信仰」とは、「信じて仰ぐ」と書くように、 手で触れたり、目で見ることの出来ないような偉大な存在(対象)と人格的な関わりを持つこと、まさに信じて仰ぐことであります。
「私は絶えず主に相対しています」(詩篇16:8)
ラテン語に「Coram Deo(コーラム・デオ)」という言葉があります。これは「神のみ前に」ということで、人の生活の全体は常に神のみ前にある、という意味です。
「神がそこに臨在され、人はその神のみ前に生きる」それが信仰だというのです。
 さて、ヘブライ11:1には、その「信仰の定義」が具体的に記されています。「信仰とは、希望するものの保証であり、見えないものの証拠である」「希望」は未来に関することであり、その未来にある希望を確かなものとするのが信仰だというのです。また、「見えないもの(例えば、愛とか喜び、平安とか信頼など)」が、ここに存在するという証拠が信仰だというのです。

 二つめに、では「信仰によって生きる」とはどういうことなのか?
ヘブライ11:3〜38までに19回も「信仰によって(ピステイ)という言葉が繰り返し使われています。頻度の多い言葉です。
信仰によって生きるとは、
@日々、聖書のみ言葉を受け入れて生きる。(み言葉に従って生きる)
A日々、主なる神を呼び求めながら生きる。(赤ちゃんが母を慕い、呼び求めるように)
B日々、主なる神を告白しながら生きる。(ローマ10:9)
C神のみ心を求めながら(神の聖なるご計画を優先しながら)生きる。
 私たちが信仰によって生きるとは、人生の土台を神に置くということ、言い換えれば、
人生のハンドルを神に握っていただいて生きるということでありましょう。

三つ目、「日常生活の中で信仰によって生きるとはどういうことなのか」
ヘブライ11:3〜38には、日常生活の中で信仰によって生きることの具体的な姿が記されています。信仰の父と言われたアブラハムやイサクやヤコブの生き方がその典型的な事例であります。
彼らがいかに「日々の暮らしの中で信仰に生きたか」つまり、「彼の日常生活の中で、いかに信仰が大きな影響を与えたかを見ていきたいと思います。
 日常生活というのは、日々、繰り返される生活ですね。いろいろな出来事や習慣、家庭生活、職場生活、子育て、家族の団らん、会話、交わりなどを指しています。
アブラハムが日常生活の中で信仰によって生きた幾つかの具体例を見ましょう。
(1)信仰によって、「行き先を知らないで」神が示す地に移住した。(引っ越し)
(2)信仰によって、家族を形成し、家族と共に生き抜いた。
(3)信仰によって、試練を受け、それを乗り越える(克服)することが出来た。
(4)信仰によって、自らの最期(死)を神に委ねることが出来る。私たちは信仰によって生も死も神に委ねて平安に生きることが出来るのです。

まとめ:
 ミレーの「晩鐘」の絵には、信仰と仕事と家庭が一つに結ばれている、信仰が、日々の暮らしからかけ離れたものではなく、無関係のものではなく、まさに信仰の中に暮らしがあり、暮らしの中に信仰が働いていることが表されています。私たちももうありたいと願います。
祝福をお祈り致します。


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.