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最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2010/06/27(日) 「あなたを手のひらに刻んだ」大嶋博道牧師
故西脇衛士兄召天記念礼拝 (聖書)イザヤ49:15〜16

序 論: 
 本日の召天記念礼拝に示された聖書のみことばはイザヤ書49章15〜16です。
その昔、イスラエルの人々は強大な外国の侵略に遭って、国が廃墟と化し、滅亡するという悲しい経験をしました。どんなに努力しても、もがいても国は回復せず、平和は訪れず、人々は絶望感に陥り、生きる気力が失せてしまっていました。

49:14を見ると「シオンは言う(イスラエルの人々は言う)、主はわたしを見捨てられた。わたしの主は私を忘れられた。」とあります。見捨てられる」とか「忘れられる」というのは、人間として最も辛いことです。「見捨てられる」とは「必要とされないことです」「生きること期待されないこと、歓迎されないことです」 これほど残酷で、孤独なことはありません。
また、「忘れられる」とは、「存在の否定」を意味します。存在を認めてもらえないほど、悲しいことはありません。 逆に、一人の人でもいいですから、「私の存在」を覚え、いつも関心を寄せて、気にしてくれ、期待してくれる人があれば、私は希望をもって前に向かって生きていくことは出来るのです。!!

49:15は「あり得ない仮定法」と言われています。
「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。」 まず、そのようなことはあり得ない、という前提があります。そして「たとえ、女たちが忘れようとも、神であるわたしがあなたを忘れることは決してない。」というのです。

本 論:
 今朝のメッセージの中心は「わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」です。
「手のひらは」最も目につくところ、大切な部分を意味します。神は、ご自分の手のひらに、あなたの存在を刻みつけておられる、というのです。 このみことばは何を意味するでしょうか?

@神はあなたを決して見放されないお方、あなたの存在を忘れるお方ではないということ。
神様はあなたの生涯にわたってずっと関心をいだき、心配し、共に歩まれるお方です。

A神はあなたを「高価で貴い存在」と認めておられる。
あなたの地位や名誉や肩書きで、持っているもの、身に着けているものであなたの値打ちを計算されるお方では断じてない。あなたの存在そのものを、あなたのあるがままの姿をそのまま「高価で貴い」と言ってくださる。(イザヤ43:4)

B神はあなたを生涯の終わりまで責任をもって持ち運んでくださるお方である。
「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる神、たじろぐな、わたしはあなたを救う神」
昼は雲の柱、夜は火の柱としていつも「臨在」を明らかにしてくださる神様だからこそ、私たちを確かに持ち運んでくださるのです。

まとめ:
 西脇衛士さんは、生涯、神を信じ、神に信頼して歩み続けました。西脇さんも神の手のひらに刻まれた一人でした。今は天にあって、神のふところに抱かれていることでしょう。 神様が西脇さんをその生涯の間、決して忘れなかったように、私たちも西脇さんを忘れません。「神第一の信仰」「イエス・キリストの十字架の贖いに基づく聖書信仰」そして、家族を愛し、クリスチャンの仲間を大切にされた西脇さんの生き様を!
 皆様の上に、神の祝福と、慰めと平安をお祈りいたします

2010/06/20(日) 「極みまで愛されて」大嶋博道
特別伝道礼拝 (聖書)ヨハネ13:1〜11

序論:
 キリスト教の中心は「愛」です。
 著者ヨハネは、「神は愛である」と述べたあと、神の愛の具体的な出来事をこう伝えています。「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を贖ういけにえとして、御子イエス・キリストをお遣わしになりました。」と。ヨハネ13:1〜 
神の愛は「極みまでの愛」と言われています。文語訳聖書には、「世にある己の者を、極みまでこれを愛し給えり」と記されています。

イエスは十字架の死を直前にして、12の弟子と共に最後の晩餐をされた。
1.食事の前に、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って越しにまとわれ、たらいに水を汲んで弟子たちの汚れた足を洗い、ふき始められた。
2.イエスは弟子たちにあなたがたも互いに足を洗いあいなさい」と勧めた。足を洗うというのは「人々に仕える」象徴的な姿であります。
イエスは、神ご自身でありながら、人となり、仕えるしもべとなって、最後は十字架の上で人々の罪を贖うためにいのちを投げ出してくださったのです。ヨハネはそれを「ここに愛があります」と強調し、またその愛を「極みまでの愛」と述べたのです。 

本 論:
「極みまでの愛」とは、 究極の愛、命をかけた愛、従って最後的な愛
(1)自分を理解せず、むしろ裏切るであろう者たちの足を丁寧に洗い、また彼らと食卓を共にするほどの愛であります。(価値観や生き方が異なる人をも受け入れ、彼らに心から仕え、共に生きようとするほどの愛)私たちの愛は、条件付きで限定された愛。それは愛でなく、あるいは「自己愛」かも知れません。自分の好みだから、自分に好都合だから、自分にとって心地よいから。すべて、「自分中心」ですね。
マザーテレサは「愛」について幾つかの名言を残しています。
「大切なのはどれだけ沢山のことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです。」
「人のことをいちいち批判していたら、人を愛することを忘れてしまう。」「もしほんとうに愛したいと願うなら、ゆるすことを知らなければなりません。」
「愛の反対語は、憎しみではなく無関心です。」
「最も悲惨なことは飢餓でも病気でもない。自分が誰からも愛されていないと感じる
ことです。」
「世界平和のために何ができるかですって?家へ帰って、あなたの家族を愛しなさい。」

まとめ:
 神が私たちを極みまでも愛してくださったように、私たちも関わりのある人を全存在をもって愛したいと願います。 愛とは、愛とは相手の側に立つこと(相手の側に身を置くこと=寄り添うこと)
愛とは自分を捨てること(失うこと)
愛とは相手のために動くこと
愛とは相手に自分の持ち時間を与えること
愛とは心から相手を受け入れること
愛とは相手の過ちを赦すこと、忘れてあげること
愛とは相手が育つのをじっと見守り、待ち続けること
愛とはその人のために祈り続けること

2010/06/13(日) 「空の鳥・野の花を見よ」大嶋博道牧師
花の日大人子ども合同礼拝 (聖書)ルカ12:22〜31

 イエス様はガリラヤの湖を見下ろす小高い山上の丘で群衆に「3つのこと」を語りかけられました。2000年後の私たちも聴くに値するものです。
 その1:衣食住の生活のことで思い悩むな
@「思い悩み」はどこから生まれるか?
「思い悩み」と訳されたギリシャ語[メリムナ]は元々、生活の重要な事柄が心をとりこにすること、また、「心が分割して集中出来ない状態」を意味します。
「心配」とか「思い煩い」とか「心遣い」とも訳すことができます。思い悩みは主として、衣食住とそれを維持するお金やモノ、健 康、責任を果たす能力、様々な人間関係、子育て、自分の将来のことなどから生じます。

A私たちはなぜ「思い悩む」のでしょうか?
1・「自分の未来はこうなる」と、自分勝手に決めてしまうから。不確かなのに「未来図」を描いて「そうなる」と思いこんでしまうから。
2・毎日の出来事をマイナスに考えて計算するから。
3・いろいろなものを持ちすぎているから。
4・人間存在の本質は「未完成」であることを受け入れられないから、
5・自分の人生を神のみ手に委ねることができないから。

 その2:空の鳥(カラス)をよく見なさい。野の花(野アザミ)を注意して見なさい。
 イエスは私たちの目を「空の鳥や野の花」に向けさせ、見捨てられたようなカラスでさえ神は養って下さり、枯れて焼却炉に投げ捨てられる野アザミでさえ神は装って下さるのだから、「ましてあなたがたにはなおさらである」(12:28)と、語られました。今日も、空の鳥、野の花を注意深く観察しましょう。きっと、思い煩いは消え、喜びと感謝があなたの心を支配するでしょう。

 その3:神の国と神の義を求めなさい
 神の国と神の義というむずかしい言葉を具体的に説明すると以下のようになります。
@神と向き合って、信仰によって歩みなさい。
A神の御心(聖なるごい計画)を求め、神の御心に沿って歩みなさい。
Bどんな時にも優先的に神があなたの生活を見守り、支え、ご支配しておられることを確信して「神第一・聖書第一・祈り第一・教会第一」にして歩みなさい。

今朝のメッセージを聴かれた皆さんにお伝えしたい大切なポイント(まとめ)
聖書の神は「配慮の神」「Pro-ver(予め見ておられる神)」です。ですから、
 @感謝を込めて祈りと願いを捧げましょう。
 A求めているものを何でも神にうち明けたいものです。
 B最善が成る(万事が益)ことを信じて今日精一杯生き、明日に期待しよう。

                            (ローマ8:28)

まとめ:   
 ジョン・ウエスレーの言葉を引用します。
「遠い将来に何をしょうなどと、思い悩んではなりません。そのような遠い将来はあなたに来ないかも知れません。また、あなたの関心事でなくなっているかも知れません。あなたはその日その日の存在でしかないのです。
 いや、もっと厳しく言うならば、明日と何の関わりがあるのでしょうか。必要もないのに、なぜあなたは途方に暮れるのですか。神はあなたに与えられたいのちを支えるために必要なものはすべて備えてくださいます。

2010/06/06(日) 「あなたを救うものとは」畑中康雄勧士
信徒礼拝 (聖書)ルカ17:11〜19

み言葉によるとイエスがある村に入られると、10人の重い皮膚病を患っている人に出会われ、その人たちはイエスのもとに助けを求めたのでイエスはこの人たちを癒されました。
 10人の内の1人は自分が癒された事を知ると大声で神を讃美しながらイエスのもとに戻ってきました。そしてイエスの足もとにひれ伏して感謝しました。そこでイエスは「清くされたのは10人ではなかったのか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を讃美するために戻って来た者はいないのか。」と尋ねられました。
 この質問は主から多くの祝福を受けながら主に感謝する事を忘れている者への叱責での言葉です。イエスはこの感謝のためにイエスのもとに戻って来たサマリヤ人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。

 さて神に感謝をするために戻って来た人は神様から「2つの祝福」を受けます。即ち、イエスは「あなたの信仰があなたを救った。」と言われています。この「救った」と言う言葉は原語では「肉体と共に魂の救い」を意味する言葉が使われていますから神様に感謝すると言う事は「肉体と同じように魂の癒しを受ける」と言う事を意味します。この事からすると、癒されたのにイエスに感謝するために帰って来なかった9人は「体は癒されたが魂は癒されず、永遠の命を得る事は出来なかった」のです。そして感謝をするために戻って来てイエスから「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われたこのサマリヤ人は肉体と共に魂の癒しを受けたのです。

 今日のみ言葉の主題「あなたの信仰があなたを救った」とは「あなたの信仰があなたの体と魂を救った」と言う意味であり、この事はキリストによる救いの完成を意味します。
主から祝福を受けた者は感謝を持って主に仕える、今日の聖書のみ言葉からこの事を学び「肉体と共に魂の救いと共に永遠の命を頂きたい」ものと願います。


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