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2010/06/20(日)
「極みまで愛されて」大嶋博道
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特別伝道礼拝 (聖書)ヨハネ13:1〜11 序論: キリスト教の中心は「愛」です。 著者ヨハネは、「神は愛である」と述べたあと、神の愛の具体的な出来事をこう伝えています。「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を贖ういけにえとして、御子イエス・キリストをお遣わしになりました。」と。ヨハネ13:1〜 神の愛は「極みまでの愛」と言われています。文語訳聖書には、「世にある己の者を、極みまでこれを愛し給えり」と記されています。 イエスは十字架の死を直前にして、12の弟子と共に最後の晩餐をされた。 1.食事の前に、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って越しにまとわれ、たらいに水を汲んで弟子たちの汚れた足を洗い、ふき始められた。 2.イエスは弟子たちにあなたがたも互いに足を洗いあいなさい」と勧めた。足を洗うというのは「人々に仕える」象徴的な姿であります。 イエスは、神ご自身でありながら、人となり、仕えるしもべとなって、最後は十字架の上で人々の罪を贖うためにいのちを投げ出してくださったのです。ヨハネはそれを「ここに愛があります」と強調し、またその愛を「極みまでの愛」と述べたのです。
本 論: 「極みまでの愛」とは、 究極の愛、命をかけた愛、従って最後的な愛 (1)自分を理解せず、むしろ裏切るであろう者たちの足を丁寧に洗い、また彼らと食卓を共にするほどの愛であります。(価値観や生き方が異なる人をも受け入れ、彼らに心から仕え、共に生きようとするほどの愛)私たちの愛は、条件付きで限定された愛。それは愛でなく、あるいは「自己愛」かも知れません。自分の好みだから、自分に好都合だから、自分にとって心地よいから。すべて、「自分中心」ですね。 マザーテレサは「愛」について幾つかの名言を残しています。 「大切なのはどれだけ沢山のことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです。」 「人のことをいちいち批判していたら、人を愛することを忘れてしまう。」「もしほんとうに愛したいと願うなら、ゆるすことを知らなければなりません。」 「愛の反対語は、憎しみではなく無関心です。」 「最も悲惨なことは飢餓でも病気でもない。自分が誰からも愛されていないと感じる ことです。」 「世界平和のために何ができるかですって?家へ帰って、あなたの家族を愛しなさい。」 まとめ: 神が私たちを極みまでも愛してくださったように、私たちも関わりのある人を全存在をもって愛したいと願います。 愛とは、愛とは相手の側に立つこと(相手の側に身を置くこと=寄り添うこと) 愛とは自分を捨てること(失うこと) 愛とは相手のために動くこと 愛とは相手に自分の持ち時間を与えること 愛とは心から相手を受け入れること 愛とは相手の過ちを赦すこと、忘れてあげること 愛とは相手が育つのをじっと見守り、待ち続けること 愛とはその人のために祈り続けること
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