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最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2010/07/25(日) 「荒れ野の旅を導く主」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝 (聖書)出エジプト13:17〜22

序 論:
 キリスト教は荒野の宗教と言われています。イスラエルの民を荒れ野の40年を経て、約束の地カナンに導かれたように、私たちの荒野の旅を導かれるのは父なる神であり、イエス・キリストだからです。
「荒野」とは、死と直面している場所であり、あなたが今、遭遇しているその場面です。荒野には全く緑がありません。ですから「死」と直面する場所なのです。
「「荒野」とは宗教的には「苦しみを経験する場所」「希望を失い、見捨てられた場所」と言う意味があります。しかし、またそこは神との決定的な出会いの場所でもあるのです。今日の聖書からもこの事を学ぶ事が出来ます。神は約束の地への旅の中でこの
事を示されました。今日の聖書から3つの事を学びます。

本 論:
@神はあなたの人生の荒野を支配しておられるお方です。
 荒野は人生の危機ですがそれを支配されているのが神様です。今日のみ言葉では、一番近い道のりではなくて「荒野の道」へと迂回されました。(18節)私たちの人生は時には神のご計画の中で迂回させられる事があります。しかし、私たちの人生を支配されるのは神様なのです。
 
A神はあなたの荒野の旅の先頭を歩まれます。(21節)
 み言葉に「主は彼らの先頭に立って進み、民の先頭を離れる事はなかった」とある通りです。神は安易な道ではなくて回り道をさせられる事が時としてあります。しかし、その時にも神は私たちの先頭に立っていてくださるのです。 
 
B神はあなたの人生の旅の真っただ中に明確に「臨在」されるお方です。(22節)
 神は「昼は雲の柱、夜は火の柱」となって私たちと共にいてくださるのです。40年の出エジプトの旅の間、そのようにして共にいて下さったのです。(21〜22節)今の時代に生きる私たちは、神の「臨在」を聖書によって、そして祈りによって知る事が出来ます。

まとめ:
 神は私たちに試練を与えられますが、その試練の中にあっても神がいてくださる。と言う事はみ言葉にある通りです。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリント一10:13)

2010/07/18(日) 「見神から献身へ」大澤恵太神学生
伝道献身者奨励礼拝 (聖書)イザヤ書6:1〜8

<序論>
 今朝は伝道献身者奨励礼拝です。イザヤという人は歩むべき道を見失ったイスラエルに悔い改めと回復の希望のメッセージを伝えるために主に選ばれた人でした。今、私たちもこの世にあって同じ役割をいただいています。その役割が全うされるために、
主が私たちに与えてくださるお取り扱いが何であるか、このイザヤの召命の記事から学ばされたいと思います
<本論>
1、自分の姿を知らされる
 イザヤが栄光に輝く主を見た時、彼は自らの汚れた姿を知らされました。汚れた自分の姿に絶望し「災いだ。わたしは滅ぼされる。」と叫ばざるを得なかったのです。私たちは普段あまり自らの醜い部分を見ようとしません。しかし、時に主は御自身の光をもって私たちの闇の部分を暴かれるのです。それは極めて危機的な状況です。

2、自分の罪が赦される
 セラフィムと呼ばれる者が燃える炭火を持ってイザヤに近づきます。イザヤにとっては恐怖の瞬間だったでしょう。しかし、セラフィムは炭火をイザヤの唇に触れさせた後、「あなたの罪は赦された」と宣告したのです。「災いだ、滅ぼされる」と自らを嘆いたイザヤにとって、この宣告はどれほどの喜びと平安をもたらしたことでしょうか。主イエスの十字架によって、私たちの罪が赦されたこと、これはとんでもない出来事であり、驚くべき恵みです。この喜びこそ、私たちの信仰生活の土台となるのです。

3、遣わされる 
イザヤは自らの汚れを知って絶望し、罪が赦された事実を知って喜びました。ここで主の派遣の言葉が響きます。しかし、主は「行け、イザヤよ」とは言われませんでした。
ただ「誰を遣わそうか」と言っただけです。そして、イザヤは罪が赦された喜びの大きさのあまり、思わずその言葉に「ヒンニー!(わたしがここにおります。)」との応答の声を挙げたのです。神様が自らの内になしてくださった救いという恵み大きさを知った者は、誰もがその喜びのあまりに「ヒンニー!」と叫ばざるを得ないのではないでしょうか。

<結論>
 今朝、イザヤになされたこれらのお取り扱いが私たちの内にもなされるよう、飢え渇きをもって主の御前に出させていただきましょう。そして、主に罪を赦された喜びに輝いて、この世に遣わされていこうではありませんか。

2010/07/11(日) 「生きる意味とは」畑中康雄勧士
信徒礼拝 (旧約聖書)コヘレト21:1

●私の小学生の時の生きがいは「父のような立派な大工」となる事であり、中学生頃からは「公務員」となって国民に奉仕する事でした。公務員に就職してから退職するまでには一貫して「この世の中に生かされて、用いられて仕事を通して社会に貢献している事」が何と言っても生きがいでした。しかし、全ての公職から離れた今は社会的には期待される事も無く、今までの様に世のために働く事に生きがいを感じる事とは縁のない毎日なのだと感じる事があります。

●コヘレトの言葉の主題は「無意味。全ては無意味」と言うところにあり、そして「全ては空」と言うところにあります。そのコヘレトは「あなたの手のなすべきことを力を尽くしてなせ。そして何よりも神を恐れ、あなたの目を最後の審判の日に向けよ」と言っています。 

●天地創造の物語では自然界のすべてのものを造られた時に神様は「良しされ」たのですが、人をお造りになられた時には「祝福され」ました。私たちは「良しとされたのではなくて祝福されてこの世に生まれて来たのです。何かをなすためにこの世に送られてきたのではなくて、私たちの存在は「存在そのものが祝福された存在」なのです。
人は何のために生きるのか?ではありません。神が「お造りになり」そして「その存在を祝福された」から人は生まれ、存在し、生きているのです。自分で生きている価値を探し求め、そこに生きる意義を見出した時には生き、価値を見出せなくなったからと言って死んでいく存在ではないのです。単に「生きる事」その事にしか無く、その事にのみ「生かされて生きている」と言う生きる意義があります。

 ですから人の目に存在価値がなくなったように見えてもその人には存在価値があり、人の存在は貴いのです。人は将来を悲観して「死ぬ事(自殺する事)」もその人の存在価値を認めずに「人を殺す事(殺人を犯す事)」も許されず、どのような状況の中にある時にも人は人間として尊厳を持って生かされ、扱われ、生きていく事が求められているのです。人の生きる意義はコヘレトの言葉12章13節の「すべてに耳を傾けて得た結論。神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべて」ではないでしょうか。

2010/07/04(日) 「床を担いで歩きなさい」大嶋博道牧師
特別伝道礼拝 (聖書)ヨハネ5:1〜9

序 論:
 エルサレムの城壁の北側、「羊の門」の傍らに「ベトザタ(憐れみ/癒しの家)」と呼ばれる小さな池があり、そこには、以前から病気で苦しんでいる人々が大勢いた。
この池は、時々、地中から泉が噴出して表面の水を動かしており、最初に飛び込んだ病人は癒されるといううわさ(迷信)と言うか評判が広まっていた。
ここに38年も病気に苦しんでいた人がいた。主イエスはこの男に目を留め、「良くなりたいか」と声をかけらた。質問は唐突で、的はずれのように思われたが、実は最も核心をつくものであった。彼は不治の病と絶望感の中で横たわっていたのだ。まさに「弱さへの居直り」であった。主イエスはこの男に向かって「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われた。彼は立ち上がり、床を担いで歩いたのである。

本 論:
 私たちは日々、幸いを願い、喜びと感謝に満たされて歩みたいと願いつつも、仕事や家庭生活、人間関係などで「マンネリ(単調、無感動、無関心、惰性)」になっていないだろうか?そのような生活から新しいいのちを得て、イキイキと歩んでいくためにはどうしたら良いのか?ヨハネ5:9から二つの大切なことを学びたい。

(1)信仰をもって起きあがること
 この「起き上がる」という「エゲイロー」には、起きる、立ち上がる、建てる、復活するという意味があり、 父なる神が御子を死者の中から立ち上がらせられた出来事、すなわち「復活」をあらわす言葉である。私たちは、主イエスの復活の力に与り、信仰をもって立ち上がりたい。
(2)自分の床を担いで歩くこと
 さらに、「床を担いで歩きなさい」と言われる。彼の「床」(クラバトス)とは、貧しい人の寝床のことで、今まで彼を縛り付けていたものであり、彼の人生の苦しみの象徴であった。
私たちにも様々な「クラバトス」がある。性格的な弱さ、健康上の問題、仕事の問題、人間関係の歪み、家庭の不和、生きる事を困難にさせる様々な障害である。

 それを担いで歩けとは
@まず、それから解放されて、勝利の生き方をするということ。
A自らの苦しみの現実をしっかりと受けとめながら、今やそのような自分が主イエスのみ言葉によって生きる者とされるということ。
元より、「信仰によって生きる」ということは、自分を縛り付けている困難や苦しみの現実からの逃避ではなく、むしろ、この重い現実を逆に担って生きることなのである。
 仕事、家庭生活、立ちはだかる諸問題、人間関係、自らの健康など、自分を押しつぶすような現実を大胆に担って歩くこと―これこそ本当の生きたキリスト教信仰なのである!
 
 まとめ:
 イエス様の言葉を聞くだけで終わるなら、何も始まらない。その言葉に従って一歩踏み出すことが大切である。さあ、今から起きあがり、自らの人生をしっかり引き受けて歩みましょう。疲れた時、弱った時は主ご自身をあなたを背負って下さいますから。
  旧約聖書のイザヤ書には次のような御言葉がある。「あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46章3節)


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