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2010/07/25(日)
「荒れ野の旅を導く主」大嶋博道牧師
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フレンズ・サンデー礼拝 (聖書)出エジプト13:17〜22 序 論: キリスト教は荒野の宗教と言われています。イスラエルの民を荒れ野の40年を経て、約束の地カナンに導かれたように、私たちの荒野の旅を導かれるのは父なる神であり、イエス・キリストだからです。 「荒野」とは、死と直面している場所であり、あなたが今、遭遇しているその場面です。荒野には全く緑がありません。ですから「死」と直面する場所なのです。 「「荒野」とは宗教的には「苦しみを経験する場所」「希望を失い、見捨てられた場所」と言う意味があります。しかし、またそこは神との決定的な出会いの場所でもあるのです。今日の聖書からもこの事を学ぶ事が出来ます。神は約束の地への旅の中でこの 事を示されました。今日の聖書から3つの事を学びます。
本 論: @神はあなたの人生の荒野を支配しておられるお方です。 荒野は人生の危機ですがそれを支配されているのが神様です。今日のみ言葉では、一番近い道のりではなくて「荒野の道」へと迂回されました。(18節)私たちの人生は時には神のご計画の中で迂回させられる事があります。しかし、私たちの人生を支配されるのは神様なのです。 A神はあなたの荒野の旅の先頭を歩まれます。(21節) み言葉に「主は彼らの先頭に立って進み、民の先頭を離れる事はなかった」とある通りです。神は安易な道ではなくて回り道をさせられる事が時としてあります。しかし、その時にも神は私たちの先頭に立っていてくださるのです。 B神はあなたの人生の旅の真っただ中に明確に「臨在」されるお方です。(22節) 神は「昼は雲の柱、夜は火の柱」となって私たちと共にいてくださるのです。40年の出エジプトの旅の間、そのようにして共にいて下さったのです。(21〜22節)今の時代に生きる私たちは、神の「臨在」を聖書によって、そして祈りによって知る事が出来ます。
まとめ: 神は私たちに試練を与えられますが、その試練の中にあっても神がいてくださる。と言う事はみ言葉にある通りです。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリント一10:13)
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