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2010/07/18(日)
「見神から献身へ」大澤恵太神学生
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伝道献身者奨励礼拝 (聖書)イザヤ書6:1〜8 <序論> 今朝は伝道献身者奨励礼拝です。イザヤという人は歩むべき道を見失ったイスラエルに悔い改めと回復の希望のメッセージを伝えるために主に選ばれた人でした。今、私たちもこの世にあって同じ役割をいただいています。その役割が全うされるために、 主が私たちに与えてくださるお取り扱いが何であるか、このイザヤの召命の記事から学ばされたいと思います <本論> 1、自分の姿を知らされる イザヤが栄光に輝く主を見た時、彼は自らの汚れた姿を知らされました。汚れた自分の姿に絶望し「災いだ。わたしは滅ぼされる。」と叫ばざるを得なかったのです。私たちは普段あまり自らの醜い部分を見ようとしません。しかし、時に主は御自身の光をもって私たちの闇の部分を暴かれるのです。それは極めて危機的な状況です。 2、自分の罪が赦される セラフィムと呼ばれる者が燃える炭火を持ってイザヤに近づきます。イザヤにとっては恐怖の瞬間だったでしょう。しかし、セラフィムは炭火をイザヤの唇に触れさせた後、「あなたの罪は赦された」と宣告したのです。「災いだ、滅ぼされる」と自らを嘆いたイザヤにとって、この宣告はどれほどの喜びと平安をもたらしたことでしょうか。主イエスの十字架によって、私たちの罪が赦されたこと、これはとんでもない出来事であり、驚くべき恵みです。この喜びこそ、私たちの信仰生活の土台となるのです。
3、遣わされる イザヤは自らの汚れを知って絶望し、罪が赦された事実を知って喜びました。ここで主の派遣の言葉が響きます。しかし、主は「行け、イザヤよ」とは言われませんでした。 ただ「誰を遣わそうか」と言っただけです。そして、イザヤは罪が赦された喜びの大きさのあまり、思わずその言葉に「ヒンニー!(わたしがここにおります。)」との応答の声を挙げたのです。神様が自らの内になしてくださった救いという恵み大きさを知った者は、誰もがその喜びのあまりに「ヒンニー!」と叫ばざるを得ないのではないでしょうか。 <結論> 今朝、イザヤになされたこれらのお取り扱いが私たちの内にもなされるよう、飢え渇きをもって主の御前に出させていただきましょう。そして、主に罪を赦された喜びに輝いて、この世に遣わされていこうではありませんか。
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