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2010/07/04(日)
「床を担いで歩きなさい」大嶋博道牧師
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特別伝道礼拝 (聖書)ヨハネ5:1〜9 序 論: エルサレムの城壁の北側、「羊の門」の傍らに「ベトザタ(憐れみ/癒しの家)」と呼ばれる小さな池があり、そこには、以前から病気で苦しんでいる人々が大勢いた。 この池は、時々、地中から泉が噴出して表面の水を動かしており、最初に飛び込んだ病人は癒されるといううわさ(迷信)と言うか評判が広まっていた。 ここに38年も病気に苦しんでいた人がいた。主イエスはこの男に目を留め、「良くなりたいか」と声をかけらた。質問は唐突で、的はずれのように思われたが、実は最も核心をつくものであった。彼は不治の病と絶望感の中で横たわっていたのだ。まさに「弱さへの居直り」であった。主イエスはこの男に向かって「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われた。彼は立ち上がり、床を担いで歩いたのである。 本 論: 私たちは日々、幸いを願い、喜びと感謝に満たされて歩みたいと願いつつも、仕事や家庭生活、人間関係などで「マンネリ(単調、無感動、無関心、惰性)」になっていないだろうか?そのような生活から新しいいのちを得て、イキイキと歩んでいくためにはどうしたら良いのか?ヨハネ5:9から二つの大切なことを学びたい。 (1)信仰をもって起きあがること この「起き上がる」という「エゲイロー」には、起きる、立ち上がる、建てる、復活するという意味があり、 父なる神が御子を死者の中から立ち上がらせられた出来事、すなわち「復活」をあらわす言葉である。私たちは、主イエスの復活の力に与り、信仰をもって立ち上がりたい。 (2)自分の床を担いで歩くこと さらに、「床を担いで歩きなさい」と言われる。彼の「床」(クラバトス)とは、貧しい人の寝床のことで、今まで彼を縛り付けていたものであり、彼の人生の苦しみの象徴であった。 私たちにも様々な「クラバトス」がある。性格的な弱さ、健康上の問題、仕事の問題、人間関係の歪み、家庭の不和、生きる事を困難にさせる様々な障害である。
それを担いで歩けとは @まず、それから解放されて、勝利の生き方をするということ。 A自らの苦しみの現実をしっかりと受けとめながら、今やそのような自分が主イエスのみ言葉によって生きる者とされるということ。 元より、「信仰によって生きる」ということは、自分を縛り付けている困難や苦しみの現実からの逃避ではなく、むしろ、この重い現実を逆に担って生きることなのである。 仕事、家庭生活、立ちはだかる諸問題、人間関係、自らの健康など、自分を押しつぶすような現実を大胆に担って歩くこと―これこそ本当の生きたキリスト教信仰なのである! まとめ: イエス様の言葉を聞くだけで終わるなら、何も始まらない。その言葉に従って一歩踏み出すことが大切である。さあ、今から起きあがり、自らの人生をしっかり引き受けて歩みましょう。疲れた時、弱った時は主ご自身をあなたを背負って下さいますから。 旧約聖書のイザヤ書には次のような御言葉がある。「あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46章3節)
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