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最新の絵日記ダイジェスト
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2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
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2010/08/29(日) 「主なる神はわが力だから」大嶋博道牧師
 聖日礼拝 (聖書)ハバクク書3:17〜19

序 論:
「ハバクク」というのは預言者の名前です。その意味は「抱く、からみつく」ということで、預言者ハバククの性格をよく表しています。エレミヤと同時代の預言者と言われる。このハバクク書は南王国ユダがカルデア(バビロン)によって滅亡しようとするBC605年頃の出来事を記しており、3つの部分から成っています。
@1:2〜4
 国が乱れ、暴虐と不法が行われているのに、神はなぜこれを裁かないで、見過ごしておられるのか?「ある注解者はこの祈りを「ハバククの絶望的なすすり泣き」と述べています。
A1:5〜12
 それに対して、主の答えは、カルデヤ人(バビロン人)を用いて、厳しく審くと言われたのです。
神の民を罰するのに、よりによってカルデヤ人(暴虐の民)を用いられるとは、と言う新しい疑問に包まれるハバククです。
B2:1〜5
 しかし、神の審きの厳粛さの中で、神に信頼を置く者には赦しが与えられ、そして「神に従う人は信仰によって生きる」ことをハバククは確信したのです。

本 論: 
 今朝は3:1〜19のハバククの祈りから、特に、18〜19からハバククの信仰をとおして、私たちの信仰生活、生き方を共に学びたいと思います。

(1)いちじくやぶどうやオリーブの木と畑は収穫を見ないで、失敗に終わっているけれども、羊や牛などの家畜の群れは増殖せず、何も残っていないけれども、・・・・
これは人生の中で生じた大試練であり、いのちを脅かす危機的状況です。私たちの人生にも時には根底を揺るがす困難や試練が襲ってくることがあります。大きな病気や事故や災害、仕事の行き詰まりや失敗、人間関係のヒビ、断絶など。しばしば岐路にたたされ、いのちの危機を感じます。

(2)このような大きな試練の中で、主にあって喜びわが救いの神のゆえに踊る。
これは預言者ハバククのものすごく強い信仰の告白です。主にあって喜ぶ→健全な信仰の姿。救いの神のゆえに踊る→これも健全な信仰の姿。

(3)なぜなら、わたしの主なる神は、わが力だから。
喜ぶ根拠、踊る根拠がここにあるというのです。詩編の詩人が力強く告白しているのと共通して
います。(詩編62:2〜3,6〜7及び8)

まとめ:
 ハバククの信仰は新約聖書のパウロが受け継いでいる。
フィリピ4:4〜7
(1)主にあって喜びなさい
(2)どんなことでも、思い煩うのはやめなさい
(3)感謝と祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい
(4)神は最善をなしてくださる。
最後にローマ5:3〜5を読んで終わりましょう。

2010/08/22(日) 「本当に豊かな生き方」大嶋博道
フレンズ・サンデー礼拝 (聖書)フィリピ2:12〜16

はじめに:
 第2次世界大戦後、日本は平和と経済復興に努めた結果、豊かな長寿社会を築きました。
しかし昨今の日本を見るとき本当に豊かな国になったのかと思う事があります。政治の混迷、教育現場の混乱、社会秩序の乱れ、家庭の崩壊、多数の自殺者…この現実を見る時に、今の私たちは決して豊かとは言えず、この様な生き方で良いのか、と考える必要があります。
E.フロムの「Having(Doing)=持つ様式」に従えば、確かに豊かな生き方と言えます。
しかし、「Being=存在」は果たして、本当に豊かさを感じているでしょうか?

序 論:
 人間の価値観を「人間の存在そのものが高価で貴い」と言うことを豊かさの基準にとする考えがあります。それはその人自身の個性が尊重される生き方です。
 ルカによる福音書12章13〜21節に「愚かな金持ち」のたとえ話があります。このたとえ話の中で、この金持ちが犯した過ちは@彼が自分の人生の主人公と思い込んだ事A彼には喜びを分かち合う人生のパ−トナ−が居なかった事B彼は人間の命には限りがある事を忘れていた事でした。

本 論:
 では本当に豊かな生き方とはどのような生き方なのでしょうか。それは―
@何よりも自分の救いが達成出来る信仰を持つ生き方
A不平(つぶやき)や理屈(疑い)を言わないで生きる生き方
B命の言葉を堅く持って「星」のように輝く生き方がその生き方です。
そしてその具体的な生き方は次の様な生き方をする事です。それは私たちの生き方を―
@信仰を軸(土台)にした人生に再構築する生き方
A生きる目的や目標のある生き方
Bスム−ズな人間関係を持つ生き方
C喜びや悲しみを分かち合えるパ−トナ−のある生き方
D生活の中にゆとりや安らぎがあり、忙しさの中に休息という隙間のある生き方
E集中出来る仕事や趣味のある生き方
F心身の健康や魂の平安そして人生に生じた不都合をそのま ま受け入れる生き方
G自分の人生を神に委ねて生きる生き方、がそのような生き方と言う事が出来ます。
豊かさの基準を見直して「本当に豊かな生き方」をしたいと思います。 

2010/08/15(日) 「神を愛し、人を愛する」石黒則年牧師
特別礼拝 申命記6:1〜9
〔聖書のみことばの中心〕
「・・・あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

1.まず神を愛するということについてお話します。
 主イエスは、イスラエル人全員と同様これが旧約中もっとも重要であると述べました(マタイ22:37以下参照)。カトリックの渡辺和子氏は、神を愛するとは、神を「大切にすること」だと繰り返しておられます。
 「心を尽くし」とは、どんな意味でしょうか。現代人は「心」を「感情、気持ち、気分」と考えています。しかし、旧約時代の人々にとって「心」とは「意志、深い思慮」を意味しました。「感情、気分」は少しのことで高揚し、塞ぎ込みます。旧約聖書は、「気分や感情で神を愛しなさい」とは言わず、「しっかりした意志と思慮深さで神を大切にしなさい」と勧めるのです。

 「魂を尽くし」とは、どういう意味でしょうか。この単語ネフェシュはギリシャ語のプシュケーと同じで、しばしば「不滅の霊魂」をさすと誤解されています。面白いことに、創世記1章20節ではこの単語が「魚」を指しています。同書2章7節では、人間に当てはめられます。魚と人間に共通した要素を推論すると、「霊魂、感情、知性」でなく、「生身の体」と見たら良いと思います。ここでは「身体全体を用いて」と読めます。

 「力を尽くして」とは、「全力を用いて」と言えます。少し範囲を広げ、神を含む目に見えない世界を大切にすることが勧められていると言えます。

2.次に人を愛するということについてお話します。
 マタイ22:34〜40によれば、ファリサイ派の一人が、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と聞いたとき、イエスは申命記6章に加えて、「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」と応えられました。
 イエス時代のシャンマイ派の人々は、神を重んじるあまり、隣人愛を軽んじ、「もし、だれかが父または母に対して、『あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です』と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ」と考えましたが(マルコ7:11〜12)、それは間違いです。
私たちクリスチャンは、主イエスに倣って、神への愛と家族や隣人への愛とをバランスよく保つ必要があります。

 (注)「シャンマイ派」とはイエス様の時代のパリサイ派の二大学派の一つで、非常に偏った宗教観を持っていた。

2010/08/09(月) 「問いかけたもう神〜生きるとは」 大嶋博道牧師
総員礼拝・聖餐式 (聖書)創世記3:8〜9、4:8〜9
序 論:
 ある神学者は「人類の歴史は神からの問いかけの歴史」であると言っています。
今日の聖書によると、人間アダムが罪を犯した時に神は「あなたはどこにいるのか」と問いかけられました。また、カインが弟アベルを襲ってそのいのちを奪った時に、神は「あなたの弟アベルはどこにいるのか」と問いかけられました。これらの問いかけは
私たちの人生に対する本質的な意味を持つ問いかけです。
 
 アブラハム・ヘッシェルというユダヤ人神学者は「人間を探し求める神」という著書の中で「神が人間を追いかけている。これこそ聖書的信仰の神秘である。聖書に書かれている限りにおける人間の歴史全体は、神が人間を探し求めておられるということに要約出来る。神への信仰は、神の問いかけに対する人間の応答なのである。」と述べています。
 イエスの譬え話の「失われた一匹の羊の物語」(ルカ15:1〜7)にも、神がどれほど人間を探し求めておられるか、そして、発見されたらどれほど大きな喜びかということが記されています。実に、聖書の神は人間を探し求め、呼び求めておられる
のです。そのことを私たちは気づかなければなりません。

本 論:
 「あなたはどこにいるのか」は、神が人間の隠れた場所が分からなくて尋ねている問いではなく、これは私たちの人生に対する本質的で決定的な問いかけなのです。
「あなたはどこにいるのか」と言う問いかけには次のような意味があります。
 
 @あなたは何者なのか?(人間存在の本質を問うもの)
 Aあなたは何をしたのか?(あなたの過去への問いかけ)
 Bあなたは今何をしているのか?(あなたの現在への問いかけ)
 Cあなたは罪を持ったままこれからどう生きようとしているのか?(あなたの未来への問いかけ)
 
 神は人を神の姿に似せて造られました。それはその人の生き様をとおして、神の栄光(神の重々しい臨在)があらわれるためなのです。しかしアダムはその役割からほど遠い「罪」を神に対して犯したのです。そのアダムに対して神は決定的な問いかけをされます。「あなたはどこにいるのか?」と。私たちはこの問いに答えなければなりません。信仰とは神の問いに対して真剣に応答する事なのです。今週もこの神の問いかけに真剣に応答する1週間でありたいと思います。

まとめ:
 「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は・・・」(ヘブライ11:6)にあるように、神の問いかけの信仰をもって応答したいものです。
私たちは、聖書をとおして、世の中の様々な出来事をとおして、自然界をとおして、そして、それぞれの個人的な体験をとおして、神の問いかけをしっかり聴き取り、信仰によって真実に応答したいものです

2010/08/01(日) 「主に導かれてP 夢見るダニエル」畑中康雄勧士
信徒礼拝 ダニエル書2:1〜19

序 論:
 「夢」は「神が御自身と人間との間の直接的な特別な伝達手段として用いられたもの」また「幻」は「神の霊感を受けた人によって示される現象、神の啓示」と言われています。
「夢」と「幻」は例えば民数記12章6節に「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば主なるわたしは幻によって自らを示し夢によって彼らに語る。」とあるように、共に神から伝えられる言葉を受けるための正常な媒介とされています。しかし新約聖書には夢・幻の物語が少なくなってます。これは聖書が私たちに導きと方向性を与えているので「夢」や「幻」よりは「聖書・特に新約聖書」が私たちには必要なものである事を示唆
しています。

本 論:
 さて、ある晩、ネブカドネツァル王は気掛かりな夢を見て不安になり「占い師、祈祷師、まじない師、賢者」たちを呼び出して夢については何も語らず自らの力で夢の内容を把握しその夢の解釈を説明するように求めます。多くの賢者は王様に夢の内容を求めて処刑されますがダニエルは先ず「夢の秘密を求めて祈り」そして「神の御名をたたえたえ」て夢解きをします。

 祈りは「神と人との交わりの手段」と言われ、神は祈りを重んじられて我々に祈る事を命じられています。「悩みの日に、わたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。」と聖書は語っています。
そして神は悩みの時だけではなくて喜びの日にも感謝の祈りを捧げる事を命じています。即ち、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい」と。
「祈る事によって私たちを神の活動範囲の中に連れて行くと言う事が出来る」とウェスレ−は言っています。そこで「われわれは偉大な救済のドラマに真にあずかるものとされる」のです。
 
私たちは教会創立後の20年間の教会の歩みを通して祈る以外に神にすがる方法は無い事を学びました。そして祈る時にはその祈りは聴かれると言う事を学びました。ですからダニエルのように1日に3度、いいえ、それ以上に何度でもお祈りをし、神様の偉大な救済のドラマに真にあずかるものとされ、そして神様から魂の糧を頂いた者として信仰深く、この世と妥協する事なく強く生きていきたいものと願います。


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