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2010/08/15(日)
「神を愛し、人を愛する」石黒則年牧師
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特別礼拝 申命記6:1〜9 〔聖書のみことばの中心〕 「・・・あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
1.まず神を愛するということについてお話します。 主イエスは、イスラエル人全員と同様これが旧約中もっとも重要であると述べました(マタイ22:37以下参照)。カトリックの渡辺和子氏は、神を愛するとは、神を「大切にすること」だと繰り返しておられます。 「心を尽くし」とは、どんな意味でしょうか。現代人は「心」を「感情、気持ち、気分」と考えています。しかし、旧約時代の人々にとって「心」とは「意志、深い思慮」を意味しました。「感情、気分」は少しのことで高揚し、塞ぎ込みます。旧約聖書は、「気分や感情で神を愛しなさい」とは言わず、「しっかりした意志と思慮深さで神を大切にしなさい」と勧めるのです。
「魂を尽くし」とは、どういう意味でしょうか。この単語ネフェシュはギリシャ語のプシュケーと同じで、しばしば「不滅の霊魂」をさすと誤解されています。面白いことに、創世記1章20節ではこの単語が「魚」を指しています。同書2章7節では、人間に当てはめられます。魚と人間に共通した要素を推論すると、「霊魂、感情、知性」でなく、「生身の体」と見たら良いと思います。ここでは「身体全体を用いて」と読めます。
「力を尽くして」とは、「全力を用いて」と言えます。少し範囲を広げ、神を含む目に見えない世界を大切にすることが勧められていると言えます。
2.次に人を愛するということについてお話します。 マタイ22:34〜40によれば、ファリサイ派の一人が、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と聞いたとき、イエスは申命記6章に加えて、「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」と応えられました。 イエス時代のシャンマイ派の人々は、神を重んじるあまり、隣人愛を軽んじ、「もし、だれかが父または母に対して、『あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です』と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ」と考えましたが(マルコ7:11〜12)、それは間違いです。 私たちクリスチャンは、主イエスに倣って、神への愛と家族や隣人への愛とをバランスよく保つ必要があります。 (注)「シャンマイ派」とはイエス様の時代のパリサイ派の二大学派の一つで、非常に偏った宗教観を持っていた。
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